
収録曲は以下の通り。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770–1827)
第1楽章 アレグロ
第4楽章 フィナーレ:プレスト
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
第4楽章 フィナーレ:プレストッシモ
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
第2楽章 アダージョ
第3楽章 主題と変奏:「Pria ch’io l’impegno(約束する前に)」による変奏曲 アレグレット
ここのところピアノ三重奏にはまっています。つい先日聴いたトリオ・ザディグのメンデルスゾーン姉妹も良かったし、カヴァコス、ヨーヨー・マ、アックスのベートーヴェンのシンフォニーhttps://note.com/picolist/n/n758a91d69aa0、ブラームス・トリオによるロシアの珍しいピアノトリオhttps://note.com/picolist/n/nee7489c96ffc、ニーヴ・トリオによるピアノ三重奏によるドビュッシーの海https://note.com/picolist/n/ncb5cb9742752、など、それぞれに個性的なアルバムをリリースしていて、同じ編成でありながらこんなにも音楽的に違うのかと驚いています。クラシックは奥が深いですね。
さて、ブッシュ・トリオですが、メンバーは
ピアノ:オムリ・エプスタイン(Omri Epstein)
ヴァイオリン:マティユー・ファン・ベレン(Mathieu van Bellen)
チェロ:オリ・エプスタイン(Ori Epstein)
10年以上前に英国のロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックで出会い結成されたとのこと。ピアノのオムリとチェロのオリは兄弟ですね、チェロのオリが兄。
もうおわかりかと思いますが、このトリオの名前はヴァイオリンの名手アドルフ・ブッシュから取られています。その理由の一つとしては、ヴァイオリンのマティユー・ファン・ベレンがグァダニーニのヴァイオリン(1783年作)で、アドルフ・ブッシュが使っていた楽器を使用しているから。もちろんアドルフ・ブッシュへの強いリスペクトも込められています。
またアドルフ・ブッシュはヨーロッパ時代にはガット弦を使用していたとのこと、このブッシュ・トリオでもヴァイオリンとチェロにガット弦を使っているのも特徴。演奏はHIPではありませんが、そのことがこのトリオの柔らかい音色につながっています。
私は実はSP時代の録音も好きで、アドルフ・ブッシュの演奏も随分聴きました。あの頃は彼らの弾くベートーヴェンdは、神聖で唯一の美の基準みたいな感じがありました。このブッシュ・トリオの演奏も確かにそのスタイルを受け継いでいるように聞こえました。それは主観的なロマン派の演奏ではなく、いわゆるモダンな楽譜に忠実で過剰な演出を避け、客観的でありながらもその中に音楽的なものをぎっしり詰めた音楽。それがこのトリオにも感じられます。SP時代の音が蘇ったような・・・アドルフ・ブッシュの演奏は決して懐古的なものではなくて、もし現代的な録音で撮ったのなら現代にも通じるような演奏なのではないかと思っていたのですが、この演奏はそんなことを感じさせません。
久しぶりにアドルフ・ブッシュとルドルフ・ゼルキンのベートーヴェンのソナタ集をちょっと聴いてみてからこのアルバムを聴くと、確かにヴァイオリンの音はブッシュの音に似ています。同じ楽器なのは確かですが、音のイメージもブッシュに近づけているのではないかしら。
それからもう一つこのアルバムで特筆すべきは、録音。アルファ・レーベルの録音、編集とマスタリングも行なっているアリーヌ・ブロンディオが担当していること。この方が録音を担当したアルバムはほぼ全て素晴らしい音。この半年ほどで取り上げたアルバムにも彼女がプロデューサーを務めた録音がいくつかありますが、これらは全て素晴らしい。そしてこのブッシュ・トリオは今までドヴォルザークのピアノ三重奏曲やシューベルトなどのアルバムを出していますが全て彼女が録音プロデューサーを務めています。アルバム制作の場合、録音技師はもう一人の演奏者と言っていいほど重要ですが、彼女はこのブッシュ・トリオとの録音ではそのアンサンブルの一員と言っていいくらいなのかも。
さて、聴いていきましょう。
ベートーヴァンのピアノ三重奏曲第1番変ホ長調。この曲はとにかくベートーヴェンが作品1として世に問うた自身の曲。今週の新譜にピアノのアンナ・ゲニューシネの作品番頭1番ばかり集めた注目のアルバムがありましたが、そこの解説でもありましたが、作品1というのは作曲家にとって本当に思いいれの深いもの。ましてやベートーヴェン。超自信作として世に問うた曲でありましょう。
本当は作品1の1番をハ短調の曲にしたかったのを、世の中の音楽的理解に合わせてハイドンに止められたと言いますが、この変ホ長調はピアノと共にヴァイオリン、チェロも活躍します。演奏の特徴としてはオムリ・エプスタインのピアノが実に透明で前に出過ぎず、包み込むように後ろで支えながら、ヴァイオリンとチェロがバランス良く入ってきます。これが絶妙で、オレがオレがという主張をみんながするのではなく、調和を考えたアンサンブル。それが録音プロデューサーのブロンディオの素晴らしい技術とセンスで見事にまとめられていますね。
若きベートーヴェンの意欲作ですから、主題は活気に満ちた分散和音、そして特有の推進力、ドラマを感じさせる展開部。これらをバランスよく仕上げています。ベートーヴェンだからと言って荒くなることもなく、透明感を最後まで保っていますね。このバランス感は、アドルフ・ブッシュがバッハや古典派を積極的に取り上げた精神をきちんと受け継いでいると感じました。
第2楽章は静謐で透明感のある演奏。ピアノの弱音がとても美しい。また短調の部分の陰影も見事に表現しています。
第1楽章冒頭はユニゾン。このハ短調の曲の冒頭がユニゾンで始まる曲ってベートーヴェンに多いですね。ピアノ協奏曲第3番とか、運命だってユニゾン。ハ短調であることを宣言するような不吉な感じ。やはりハ短調に宿る宿命感や緊張感が穏やかな第2主題との対比でドラマを生みます。ブッシュ・トリオの演奏はそれを強調し過ぎず、この曲のもつ古典的な美しさに焦点を当てているように思います。中心的な役割のピアノは時に前面に出て透明な音色で包み込み、ヴァイオリンとチェロはその背景の中で調和の取れたハーモニーを築いていいますね。
第2楽章はベートーヴェンお得意の変奏曲。穏やかな主題が第4変奏の変ホ短調で沈鬱な雰囲気になり、最後の変奏で軽やかな第5変奏を経て3つの楽器が対話を繰り広げつつ穏やかなコーダへ。ここでもブッシュ・トリオの古典的な構成感で過剰な演出は避けつつ、この作品そのものの美を引き出しています。
ここでも基本はブッシュ・トリオらしい柔らかなピアノとブッシュの音色を引き継いだヴァイオリン、そしてそれを支えるチェロがいいですね。
ピアノ三重奏曲第4番変ロ長調作品11 《街の歌》は、元々クラリネットとチェロ、ピアノのために書かれたけれど、ヴァイオリン版も第4版として良く演奏されます。ついこの間はカヴァコス、ヨーヨー・マ、アックスも弾いていました。第1楽章Allegro con brioはここでもユニゾンの勢いある序奏で始まり、きらめく主題が支配し、展開部では二つの副主題が現れますが、主題の明快さが全体を統率していきます。ハイドンやモーツァルトに通じる明朗さの中に、ベートーヴェンらしいエネルギーに満ちた明るい楽章。
第2楽章はAdagio(変ホ長調)オリ・エプスタインのチェロが甘く温かい音色で穏やかな主題を提示し、やがてヴァイオリンが引き継ぎます。全体として柔らかいチェロの存在が際立ち、短調に転ずる部分の内省的な表情が美しく、静謐な抒情と気品が漂う楽章。
最終楽章は、ヴァイグルのオペラ《恋する水夫(L’amor marinaro)》のアリア〈Pria ch’io l’impegno〉に基づく主題変奏。街中で親しまれた流行歌だったことから、《ガッセンハウアー》(=街の歌)という愛称が生まれました。
全9変奏のうち、第1変奏はピアノ独奏、第2変奏はヴァイオリンとチェロの対位法的な二重奏、第4変奏と第7変奏は短調に転じて沈鬱さと劇激情、最後はピアノのカデンツァを経て、拍子と調を変えながら主調に帰結します。当時ベートーヴェンは、この主題の出典を知らず、後に知って「もっと真面目な終曲を書けばよかった」と語ったと伝えられていますが、深刻になりがちなベートーヴェンの曲の中では親しみやすい作品。
ブッシュ・トリオの演奏は、ガット弦の使用による鋭さの抑えられたヴァイオリンとチェロの甘い音色、ピアノの透明で金属音を出さないタッチ、そして精緻なアンサンブル・バランス、各楽器が対等に語り合う透明さが魅力的。特にマティユー・ファン・ベレンの使用するブッシュが使用してたグァダニー二(1783) がもたらす温かな音色は、アドルフ・ブッシュの精神を受け継ぎ、ベートーヴェン初期の理念、─理性・情熱・友情─を体現しているように感じます。美しい録音と伝統を現代に受けついだ見事なアルバム。
2023年8月 ブリュッセル、フラージェイにて録音
アリーヌ・ブロンディオ 録音プロデューサー、編集およびマスタリング
ヴァレリー・ラガルド デザイン ジュリアン・イセバールト アートワーク カウポ・キッカス 表紙および内部写真