クラシックとオーディオの日々

毎日聴いている音楽の記録です。

ガット弦とフォルテピアノの対話 ― イブラギモヴァ&ティベルギアンのベートーヴェン

f:id:picolist:20260611083758j:image

 

今晩は、2026年6月5日にBISからリリースされた、アリーナ・イブラギモヴァ(ヴァイオリン)とセドリック・ティベルギアン(フォルテピアノ)による《ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ集 Vol.1》を聴きます。
 
収録曲は以下の通り。
 
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ長調 作品12-1
 
 Ⅰ. Allegro con brio
 
 Ⅱ. Tema con variazioni: Andante con moto
 
 Ⅲ. Rondo: Allegro
 
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第3番 変ホ長調 作品12-3
 
 Ⅰ. Allegro con spirito
 
 Ⅱ. Adagio con molta espressione
 
 Ⅲ. Rondo: Allegro molto
 
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品12-2
 
 Ⅰ. Allegro vivace
 
 Ⅱ. Andante, più tosto allegretto
 
 Ⅲ. Allegro piacevole
 
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 作品24《春》
 
 Ⅰ. Allegro assai
 
 Ⅱ. Adagio molto espressivo
 
 Ⅲ. Scherzo: Allegro molto
 
 Ⅳ. Rondo: Allegro ma non troppo
 
アリーナ・イブラギモヴァ(ヴァイオリン)
 
セドリック・ティベルギアン(フォルテピアノ)
 
アリーナ・イブラギモヴァは現代楽器と古楽器の両方で活躍する現代を代表するヴァイオリニストの一人ですね。BBCニュー・ジェネレーション・アーティストや王立フィルハーモニー協会賞受賞など輝かしい経歴を持ち、近年はキアロスクーロ弦楽四重奏団の活動でも高く評価されています。私のブログ・noteでも取り上げてきています。
こちらはこのピアニスト、ティベルギアンとのシューマン。
キアロスクーロ・クァルテット
 
共演するセドリック・ティベルギアンは幅広いレパートリーで知られるフランスのピアニスト。ロト指揮でのラヴェルの協奏曲の録音では19世紀のプレイエルを使用するなど、歴史的楽器にも深い関心を持っています。この録音では1794年製アントン・ヴァルターをもとに製作されたポール・マクナルティ製フォルテピアノを使用しています。ベートーヴェン自身が愛用した楽器に極めて近い響きとのことで、初期ヴァイオリン・ソナタの世界を描いています。
 
早速聴いてみます。
 
作品12の3曲は1798年に作曲された若きベートーヴェンの作品。モーツァルトが切り開いたヴァイオリンと鍵盤楽器の対等な関係をさらに発展させた作品ですが、すでに後年のベートーヴェンを予感させる革新性も随所に現れています。ブックレットによれば、当時の批評家はその大胆な転調や複雑な構成を理解できず「奇妙で特異な歩み方」と酷評したそうですが、現代の耳にはむしろ若い作曲家の独創性として鮮やかに響きますね。
 
第1番ニ長調ソナタは冒頭から印象的です。テンポは前向きですが決して急がず、ファンファーレ風の主題には適度な間が置かれています。やはりガット弦を使用しているイブラギモヴァの音色が特徴的。柔らかさと激しさが同居していますが、やはりモダンの音とは一線を画しますね。ティベルギアンの弾くヴァルターのピアノもチェンバロを思わせる倍音の響きも感じさせつつ、独特な音色、また音量がそれほど大きくないのでヴァイオリンと良いバランスで響きます。主部に入るとイブラギモヴァのニュアンス豊かな表現が実に魅力的。第2楽章の変奏曲では演奏の振幅が大きく、単なる美しい変奏では終わりません。短調変奏では鋭さと激しさが前面に出てきて、ベートーヴェンの革新性を強く感じさせます。当時の人は確かにびっくりしたのではないかしら。第3楽章ではシンコペーションが際立ち、歯切れの良さと推進力が印象的でした。
 
続く第3番は変ホ長調らしい柔らかな響きが魅力です。ここでまず感じたのは録音の暖かさでした。近年のBIS録音としてはかなり柔らかく、弦の倍音やホールの空気感が自然に広がります。プロデューサーはアンドルー・キーナー。長年Hyperionで数々の名録音を手掛けてきた人ですね。イブラギモヴァやキアロスクーロ弦楽四重奏団ともHyperionでもBISでも担当していて深い関係があるようです。この暖かい音作りには彼の存在も大きいのでしょう。
このソナタでは第2楽章が特に印象的でした。ヴァイオリンとピアノは終始対等に語り合います。緩徐楽章であるのにもかかわらず、終盤ではかなり激しい表情も見せ、静かに美しく終わるだけの音楽ではありませんね。強い主張のある曲と演奏です。
 
第2番イ長調ソナタは一転して明るく愛らしい作品です。モーツァルトとベートーヴェンの中間にいるような独特の響きですね。モーツァルトとベートーヴェンの中間にいるような独特の響きですね。軽やかで親しみやすいのですが、時折現れる激しさや鋭さはモーツァルトにはないものです。第2楽章では思いがけない悲しみが顔を覗かせます。第2楽章では思いがけない悲しみが顔を覗かせます。しかし絶望ではなく、その奥には確かな希望も感じられる音楽です。若いベートーヴェンらしいユーモアと前向きな精神がここにはあります。
 
そして有名な《春》ソナタ。
 
イブラギモヴァのヴァイオリンはさらに柔らかくなり、ティベルギアンのフォルテピアノもそれに自然に呼応します。印象的なのは、二人が決して突っ走らないこと。音楽は常に対話として進みます。装飾音は非常に速く処理され、流れを停滞させません。そのため柔らかく歌いながらも輪郭が明瞭で、だらだらした印象が全くありません。
第2楽章ではティベルギアンのフォルテピアノが思いのほか深い音を聴かせます。フォルテピアノというと軽く繊細な楽器という印象がありますが、この録音では豊かな陰影と深い響きを感じました。一方イブラギモヴァはヴィブラートを控えめにしながらも決して無表情にはならず、弓のニュアンスだけで豊かな感情を描き出しています。
第3楽章では軽快な音楽の中で、ピアノがふっと力を込めると音量と倍音が自然に増し、現代ピアノとは異なる魅力を聴かせます。表現の幅の広さに驚かされますね。そして終楽章ではフォルテピアノならではの明瞭なアーティキュレーションが際立ちます。一音一音の輪郭が非常に鮮明で、まるで言葉を話しているよう。現代ピアノではどうしても音が線としてつながりますが、このヴァルター型フォルテピアノでは音型そのものが語りかけてきます。
 
この録音を聴いて改めて感じたのは、フォルテピアノとヴァイオリンの理想的なバランス。現代ピアノではどうしてもピアノの存在感が大きくなりますが、この録音では二つの楽器が本当に対等な立場で会話しています。ベートーヴェンが作品12で実現しようとした新しい室内楽の姿が、そのまま現代によみがえったような印象を受けました。
 
2010年に同じ二人は現代ピアノでベートーヴェンのソナタ全集を録音しています。あちらのほうはやっぱり現代のピアノであることが大きな違い。2010年盤も素晴らしい演奏ですが、今回の録音のほうが二人の対話がさらに緻密になり、音楽の集中力も増しているように感じました。成熟した解釈に加えて歴史的楽器の魅力が自然に取り入れられています。古楽器演奏特有の硬さはなく、柔らかくしなやかでありながら、必要な場面では鋭さや激しさも失っていません。若きベートーヴェンの革新性と古典派としての優雅さを見事に両立した演奏でした。聴き進めるうちに、フォルテピアノは単にピリオド楽器ではなく、ベートーヴェンが想定していた音楽の会話を現代に伝えるための重要なパートナーなのだと実感できます。
 
また、この録音の魅力として忘れてはならないのがイブラギモヴァのガット弦による演奏です。古楽器演奏というと硬質で乾いた音を想像する人もいるかもしれませんが、この演奏にはそうした印象はほとんどありません。むしろ柔らかくしなやかで、豊かな倍音を含んだ音色が印象的です。ヴィブラートは控えめながら決して無表情ではなく、弓の運びや発音のニュアンスによって豊かな表情を生み出しています。特に《春》ソナタでは、その軽やかさが音楽全体の伸びやかさにつながっていました。展開部などで音楽が高揚しても決して重くなり過ぎず、最後まで古典派らしい軽やかさを保っていたのも印象的でした。
 
録音も非常に自然で暖かく、演奏の魅力を余すところなく伝えています。ベートーヴェン初期のヴァイオリン・ソナタを改めて見直させてくれると同時に、フォルテピアノという楽器の可能性を再認識させてくれるアルバムでありました。
過去記事は以下のブログから