
今晩は、2026年8月7日にドイツ・グラモフォンからリリースされる予定の、ブルース・リウのピアノによる《Lunaris》を聴きます。
「あれ、リリース日より早いじゃない?」と疑問に思う方もいるかもしれませんが、STAGE+を何気なく観ていたら先行配信されていたので、ちょっと先取りした得した気分で聴いてみました。
収録曲は以下の通り。
1.フレデリック・ショパン
夜想曲第8番 変ニ長調 作品27-2
2.ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2《月光》
Ⅰ. Adagio sostenuto
Ⅱ. Allegretto
Ⅲ. Presto agitato
3.クロード・ドビュッシー
《夢想》L.68、CD 76
4.ヨハン・セバスティアン・バッハ
前奏曲 ロ短調 BWV855a(アレクサンドル・ジロティ編曲)
5.アグネス・オベル
《Tokka》
6.ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 作品53《ワルトシュタイン》
Ⅰ. Allegro con brio
Ⅱ. Introduzione: Adagio molto
Ⅲ. Rondo: Allegretto moderato – Prestissimo
7.フェデリコ・モンポウ
《月の光に》によるグロッサ
8.フェデリコ・モンポウ
《月の光に》による幻想曲
9.アルノルト・シェーンベルク
《6つの小さなピアノ曲》作品19より
第1曲 Leicht, zart
10.ジェルジ・リゲティ
ピアノのための練習曲集 第1巻より
第4番《ファンファーレ》
11.アレクサンドル・スクリャービン
ピアノ・ソナタ第4番 嬰ヘ長調 作品30
Ⅰ. Andante
Ⅱ. Prestissimo volando
12.レイナルド・アーン
《さまよえる夜鳴きうぐいす》より
第1曲《冬》
13.ジョン・ケージ
《Dream》
演奏
ブルース・リウ(ピアノ)
録音:2025年12月、2026年1月
ベルリン、テルデックス・スタジオ
ブルース・リウは、もうご存知、2021年の第18回ショパン国際ピアノ・コンクールで優勝した中国系カナダ人のピアニスト。私は昨年、プロコフィエフの協奏曲を生で聴きました。非常に美しい音でありました。
彼はドイツ・グラモフォンから、ラモー、ラヴェル、アルカンを収めた《Waves》、チャイコフスキーの《四季》のアルバムをリリースしてきましたが、今回の《Lunaris》は、それら以上に個人的な構想から生まれたアルバムのようです。
《Lunaris》というタイトルは、ラテン語で「月の」「月に関する」を意味します。太陽を意味するsolからsolarisという形容詞が生まれるのと同じように、月を意味するlunaから生まれた言葉がlunarisです。
そこには、アンドレイ・タルコフスキーの映画《惑星ソラリス》が持つ、暗く未来的なイメージも重ねられているとのこと。太陽の《Solaris》に対する、月の《Lunaris》というわけです。
ブックレットには、インタビューを通してブルース・リウのこのアルバムへの思いがいろいろと綴られていますが、まずは聴いてみます。
始まりは、ショパンの夜想曲第8番。今回はDolby Atmosで聴いていますが、かなり意図的に作り込まれた音場です。最近のドイツ・グラモフォンはネオクラシカルにも力を入れていますが、ちょっとそちら寄りかな。空間的な要素を多めに取り入れ、たっぷりとした響きの中に浮かび上がってくるようなピアノです。リウは、一音一音を澄んだ空間の中に置いていきます。
その透明な響きから、ベートーヴェンの《月光》ソナタへと入っていきます。この2曲を続けた理由のひとつは、ショパンの夜想曲が変ニ長調、《月光》ソナタが嬰ハ短調で、変ニと嬰ハという異名同音の主音を共有していること。そのため、長調から短調へと表情を変えながらも、響きの重心は自然につながっていきます。
この曲の第1楽章については、アリス=紗良・オットがSTAGE+のジョン・フィールドの動画の中で述べていたことが印象的でした。あまりにも「月の光」というイメージが強い曲ですが、オットはこの第1楽章を、神秘的な月光の音楽というより、葬送の性格を持つ音楽として捉えていました。
絶えず続く三連符の上に浮かぶ付点リズムは、同じベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》第2楽章の葬送行進曲にも通じるものがあります。確かに神秘的な月光というよりも、繰り返される三連符の上に、遠くから旋律が現れては消えていく。その音楽には、どこか深い悲しみを感じます。
リウの演奏は、ことさらにその悲しみを強調してはいませんが、空間の中に浮遊するような音。これは録音によるアンビエントな効果もありますね。
第2楽章はゆっくりとしたテンポで、前楽章と次の楽章をバランスよくつなぎます。第3楽章では、それまで抑え込まれていたものが一気に噴き出し、テンポも速い。しかしリウのピアノの音は、決して汚く乱暴に爆発することなく、あくまで美しい。不安や激情が、暗闇の中でいっそう鮮明になるようです。
その激しさのあとに置かれるのが、ドビュッシーの《夢想》。《月の光》ではなく、若き日の《夢想》を選んだところがリウらしいですね。まだ後年のドビュッシーとは違って、どこか素朴で即興的な音楽。現実から夢へと意識が漂い始める、その境界に立っているように聞こえます。
ここでもリウは、一つ一つの音と和声の響きを大切にし、その響きが遠くへ消えていくのを、静かに見つめているかのようです。
続くバッハ=ジロティの前奏曲。原曲は、のちに《平均律クラヴィーア曲集》第1巻第10番へと発展する、ホ短調の前奏曲BWV855aです。ジロティはこれをロ短調へ移し、低音にあった旋律を高音域へ、細かな伴奏音型を左手へと移しました。ゆっくりと進む和声の中で、それまでの感情が次第に洗い流され、すべてが透明になっていくようです。
そこへ現れるのが、デンマーク出身のピアニスト兼シンガーソングライター、アグネス・オベルの《Tokka》。2013年のアルバム《Aventine》に収められた、歌のない短いピアノ曲です。クラシックのレパートリーの中に現代のシンガーソングライターの作品が置かれているのは意外ですが、ピアノの音色もここで急に変わります。マイクをかなり近づけたような音像で、これまでのたっぷりとした残響とは違う雰囲気。繰り返される音が作り出す静かな呼吸によって、ドビュッシーやバッハ=ジロティとはまた違う方向へ進んでいきます。
そしてベートーヴェンの《ワルトシュタイン》ソナタ。冒頭から絶えず前へ進もうとする力があり、これまでややムーディーに流れていた雰囲気を大きく変えます。基本的にはこれまでと同様に残響は多めですが、細部はその響きに埋もれず、全体にリウの透明な音と軽やかな運動感が生きています。ピアノの美しい響きが生きる第2楽章、そして推進力と雄大な美しさを併せ持ち、一瞬でニュアンスが変わっていく終楽章。どちらも見事です。
モンポウの《月の光に》によるグロッサと幻想曲では、誰もが知るフランス民謡の旋律が、遠い記憶のように聞こえてきます。きわめて簡素で壊れやすく、モンポウらしいハーモニゼーションがとても素敵な作品です。
続いて、シェーンベルクの《6つの小さなピアノ曲》の第1曲。無調の乾いた響きが、残響も抑えられたドライな音像で挿入されます。この辛口の短い作品が入ることで、甘さ一辺倒にならず、アルバム全体がキリッと引き締まります。
続くリゲティの《ファンファーレ》では、幾重にも重なるリズムと、絶えず移動するアクセントが特徴。シェーンベルクに続いてこの曲が置かれることで、緊張感がそのまま持続していきます。足元の遠近感が少しずつ歪み、まるでダリやエッシャーの絵の中へ迷い込んだような、超現実的な夢の世界です。
そしてスクリャービンのピアノ・ソナタ第4番。これはとても好きな演奏です。リウの美しい音色を生かし、複雑な作品でありながら、遠い星を見つめるような第1楽章から、途切れることのない恍惚的な上昇を描く第2楽章へと向かいます。《Lunaris》全体を貫く「闇から光へ」という軌道を、最も強烈に描いているようです。
アーンの《冬》は、冬の月明かりに照らされた風景を眺めるような、繊細な細密画。ここでは夜が内面の独白ではなく、静かな情景として現れます。
そして最後は、ジョン・ケージの《Dream》。
音楽はどこかへ向かって進むのではなく、淡々と、ただ音と時間だけが存在しています。
ここでピアノの音色は、最初の少しデッドな響きから、中間では遠くから聞こえてくるような不思議な音へと変わり、最後に、このアルバムで中心的に使われてきたピアノの響きへ戻るようです。
どういう楽器を使っているのかな、と調べてみると、リウはこのアルバムで、ヤマハのピアノと、二段鍵盤を備えたスタインウェイという二台の楽器を使用しているとのこと。
《Dream》では、三度繰り返される部分を、それぞれ異なる鍵盤で演奏しています。ただし、どの部分にどの鍵盤を使ったのかまでは明記されていません。二段鍵盤を備えたスタインウェイとは、いったいどんな楽器なのか、ちょっと興味津々ですね。
演奏会では、その場にある一台のピアノですべてを表現しなければなりません。しかし録音では、それぞれの作品や響きに最も適した楽器を選び、異なる演奏を編集によって組み合わせることもできます。リウは録音を、単なる演奏会の再現ではなく、音そのものを組み立てる創造の場として捉えているのでしょう。
Dolby Atmosで聴くと、《Dream》の途中でピアノが前方から離れ、ハイト方向の遠い場所へ移ったように感じられ、やがて再び前方へ戻ってきます。これは単に音を空間の中で動かしただけではなく、異なる鍵盤による三つの演奏と、Atmos上の配置を組み合わせたものなのでしょう。
ピアノ一台によるアルバムでありながら、音場は決して平面的ではありません。テルデックス・スタジオの響きを生かしながら、ピアノの直接音は明瞭に保たれ、その周囲に静けさと残響の空間が広がっています。音と音の間にある沈黙まで含めて作られた、非常に立体的な録音です。
そして長い旅を終えたあと、重力が消え、すべてが宙に浮いたように終わります。ショパンからベートーヴェン、ドビュッシー、バッハ、オベル、モンポウ、シェーンベルク、リゲティ、スクリャービン、アーン、そしてケージへ。一見するとばらばらに見える選曲ですが、《Lunaris》というひとつの夜の世界の中に置かれることで、それぞれの曲の意味が聞こえてくるように感じます。
名曲を集めたピアノ・アルバムというより、聴き手が自分自身の内側へ入っていくために作られた、ひとつの音の空間、とでも言えばいいでしょうか。ブルース・リウが、自分にとってピアノを弾くこと、音を聴くこと、そして時間を経験することとは何かを、ひとつの旅として描いた、個性的なアルバムでありました。