クラシックとオーディオの日々

毎日聴いている音楽の記録です。

バッハをトランペット一本で、マジ? フリーマン=アットウッド《Bach Trumpet Solo》

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今晩は、2026年9月4日にDeux-Ellesからリリースされた、ジョナサン・フリーマン=アットウッドのトランペットによる《Bach Trumpet Solo》を聴きます。

収録作品は以下の通り。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685–1750)

1.イギリス組曲第1番 イ長調 BWV 806より「サラバンド」(ト長調へ移調)
2.前奏曲とフーガ ニ短調 BWV 539
3.ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV 1023より「プレアンブルム」(ロ短調へ移調)
4.トッカータ ニ長調 BWV 912
5.パルティータ第5番 ト長調 BWV 829より「アルマンド」
6.平均律クラヴィーア曲集第1巻より 前奏曲 イ短調 BWV 865(変ロ短調へ移調)

無伴奏フルート・パルティータ イ短調 BWV 1013(ホ短調へ移調)
7.アルマンド
8.コレンテ
9.サラバンド
10.ブーレ・アングレーズ

11.イギリス組曲第1番 イ長調 BWV 806より「アルマンド」
12.トッカータ ニ短調 BWV 913(短縮版)
13.平均律クラヴィーア曲集第2巻より 前奏曲 ホ長調 BWV 878(変ホ長調へ移調)

ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681–1767)

14.無伴奏フルートのための幻想曲第1番 イ長調 TWV 40:2

ジョナサン・フリーマン=アットウッド(トランペット、編曲)

録音:2025年10月、2026年3月
オックスフォードシャー、グレート・ヘイズリー、聖ペテロ教会
録音プロデューサー/エンジニア:フィリップ・ホッブス

フリーマン=アットウッドは、2008年からロンドンの王立音楽院 Royal Academy of Musicの学長を務めている方です。長年トランペット奏者として活動し、これまでに14枚のソロ・アルバムを録音している他、録音プロデューサー、著述家、放送人、バッハ研究者としても活動してきた、かなり異色の音楽家ですね。

録音プロデューサーとしても250点を超える録音に携わり、レイチェル・ポッジャー、トレヴァー・ピノック、バーバラ・ハンニガン、クリスティアン・ベズイデンホウト、イェスティン・デイヴィス、Orchestra of the Age of Enlightenmentなど錚々たる演奏家たちと仕事をしています。

昨年、なんとバッハの無伴奏チェロ組曲全6曲をトランペット用に編曲して録音していて、私のnote・ブログでも以下で取り上げました。

アットウッド先生、今回はさらに一歩進んで、鍵盤楽器、オルガン、ヴァイオリン、フルートのために書かれたバッハ作品を、一台のトランペットだけで演奏しちゃおうという試み。

ブックレットの解説には、実にそのままの見出しが付いています。

「Bach solo per tromba, really?」

「バッハをトランペット独奏で、マジ?」。

そもそもバッハの時代には、現在のように半音階を自由に演奏できるヴァルヴ式トランペットは存在していません。ですからこれは、当時の演奏法を復元しようというHIP的な試みではないですね。

彼は、もしバッハがこれらの音楽を最初から一本の独奏楽器のために書いていたとしたら、どのような姿になっただろう。そんな想像から始まっています。

バッハが残した本来の無伴奏作品には、ヴァイオリンのソナタとパルティータ、チェロ組曲、そしてフルートのパルティータがあります。でもヴァイオリンやチェロは重音によって複数の声部や和音を演奏することができます。これに対してトランペットは基本的には一本の旋律しか演奏できません。

そこで鍵盤曲などに含まれている複数の声部を単純に削るのではなく、その音楽のメロディとハーモニーの流れを一本の線の中へ凝縮し、どの音を残し、どの音を省き、どこで音域を変え、どのように旋律をつないでいけば、バッハの音楽として自然に聞こえるのかがこのアルバムの聴きどころ。

こうした自由な編曲そのものは、バッハにとっては当時当たり前のことだったのですよね。数多のバッハ自身による他の楽器への編曲が残されています。

そのことからフリーマン=アットウッドは、バッハの楽譜を絶対的な完成品として見るのではなく、バッハ自身が行っていた編曲や即興、再構成の精神を現代のトランペットへ持ち込んで演奏しています。

早速聴いてみます。

1曲目は《イギリス組曲第1番》BWV 806から「サラバンド」。原曲はイ長調ですが、ここではトランペットの音域に合わせてト長調に移されています。ゆったりした三拍子の舞曲で、原曲では和音と装飾を伴って静かに進む音楽。フリーマン=アットウッドは、反復部分にバッハ自身の装飾変奏の手法を意識した「ドゥーブル」を加えています。

実際、軽々とした音ですが、一本で表現するのは難しそう。鍵盤で同時に鳴っていた和声は装飾音で補っています。一本の旋律だけで吹いているのに、サラバンドらしい落ち着きがありますね。

2曲目は《前奏曲とフーガ ニ短調》BWV 539。これはとても面白い選曲です。フーガの部分は、もともと《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調》BWV 1001のフーガをバッハ自身がオルガン用に多声化したもの。つまり今回は、無伴奏ヴァイオリンからオルガンへ拡大された作品を、再びトランペット一本へと戻していることになります。

フーガといえば複数の声部が追いかけ合う音楽ですが、それをトランペットでやっちゃうのだからすごい。とは言ってもやはりヴァイオリンのようにはいきませんが、頑張っているという感じ。

3曲目は、ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV 1023から「プレアンブルム」。原曲はホ短調ですが、ロ短調へ移調されています。短いながらも非常に即興的で、ヴァイオリンが独り舞台のように駆け回る前奏曲。もともと旋律楽器が主役なので、鍵盤曲をトランペットへ置き換える場合ほど大きな再構成は必要なく、フリーマン=アットウッドもほぼそのままトランペットへ移したと説明しています。

これもとても跳躍が多くてトランペットにはかなり難易度が高いのですが、さすがアットウッド、見事に吹きこなしています。

4曲目は《トッカータ ニ長調》BWV 912。このアルバムの中心となる作品の一つです。若きバッハの自由で即興的な作風が強く現れた鍵盤作品で、急速な部分、歌うような部分、フーガなどが次々に現れる作品ですが、フリーマン=アットウッドはその中から中心となる旋律を拾い上げ、あたかも最初から無伴奏楽器のために書かれたかのように再構成しています。

かなり高音も使っていて、トランペットで長く吹き続けるのはかなりキツイでしょうね。これを実演で通して吹くとなると、相当な体力でしょう。そして最後はジーグのリズムが連続して大変そう。

5曲目は《パルティータ第5番 ト長調》BWV 829から「アルマンド」。これも鍵盤作品ですね。流れるような細かな音型を持つ作品ですが、ブックレットでフリーマン=アットウッド自身が語っている「旋律そのものが和声を内包している」タイプの曲。トランペット一本への置き換えに向いた作品として選ばれています。流れるようなアルマンドのリズムをよく捉えています。

6曲目は《平均律クラヴィーア曲集》第1巻から、イ短調の前奏曲 BWV 865。ここでは変ロ短調へ移調されています。原曲は短いながら絶え間なく動く旋律線によって和声が進んでいく作品。複数の声部の対話よりも、一本の線の動きそのものが音楽を支配しているため、トランペットへの編曲に適していると彼は考えているとのこと。このアルバムの考え方が凝縮された一曲でしょう。音域も広く技巧的にもかなり難易度が高そうですが、吹き切っています。

7曲目から10曲目までは、《無伴奏フルート・パルティータ イ短調》BWV 1013。え、これもトランペットでやっちゃうの? まぁもともと管楽器のフルートのために書かれた曲なので、このアルバムの中ではもっとも原曲に近い形ですね。フリーマン=アットウッドは音楽そのものには手を加えず、トランペットの音域に合わせて完全4度下のホ短調へ移調しています。

「アルマンド」は、長く途切れることのない16分音符が続く第1楽章。フルート奏者にとっても息をどこで取るかがいつも大きな課題となる作品ですが、それをトランペットでやっちゃう。

あれ、この人、ブレスしてないぞ? 循環呼吸かなとも思ったのですが、それらしい息遣いもほとんど聞こえません。あるいは巧みな編集なのかな……もしそうなら、ちょっとずるいぞ(笑)。

「コレンテ」は、アルマンドよりも軽快で動きのある舞曲ですが、タンギングをかなり明瞭に立てて吹いているので、ちょっと軽さは犠牲になっています。

「サラバンド」は、4曲の中でもっとも静かで内省的な楽章。この曲は最もトランペットに合っているのではと思います。テンポはゆっくりした舞曲を意識しているかのようにあまり遅くはしません。瞑想的になりがちな曲ですが、ここはトランペットならではの解釈です。

「ブーレ・アングレーズ」は終楽章。跳ねるようなリズムと活発な動きを持ち、《無伴奏フルート・パルティータ》を明るく締めくくります。聴き慣れた音楽がトランペットになることでかなり印象が変わります。最後の曲は結構勇ましくて、トランペット向きかも。

11曲目は再び《イギリス組曲第1番》BWV 806から、今度は「アルマンド」。1曲目のサラバンドとは違ってこちらはより細かな音の動きを持っています。これはかなり高音域を使った演奏で、反復の際に装飾を加えています。ここでは滑らかな高音の動きが楽しめます。

12曲目は《トッカータ ニ短調》BWV 913。4曲目のニ長調 BWV 912と並んで、このアルバムのもう一つの柱となる作品。原曲はかなり長い鍵盤曲なので、今回は演奏可能な形へ短縮されています。

こちらも自由な即興的部分とフーガが組み合わされた若きバッハの作品。巨大な鍵盤曲を一本のトランペットへ凝縮するという意味では、このアルバムでももっとも大胆な編曲の一つでしょう。演奏にも非常に力が入っています。またバッハの別な側面が聴こえてきます。

13曲目は《平均律クラヴィーア曲集》第2巻から、ホ長調の前奏曲 BWV 878。ここでは変ホ長調へ移調されています。穏やかに流れる旋律の曲線によって和声が導かれていく作品で、第6曲と同様に、複数声部の対話よりも横方向の旋律の流れが強いので選ばれたのでしょう。

平均律の前奏曲がトランペット・ソロになるというだけでも、なかなか不思議な聴取体験。ちょっと違う曲に聴こえてくるから不思議です。

そして最後の14曲目だけはバッハではなく、テレマンの《無伴奏フルートのための12の幻想曲》から第1番 イ長調 TWV 40:2。この曲は私もトラヴェルソで何度も遊んだ、よく知っている曲ですが、ラッパでやっちゃうとは!

フリーマン=アットウッド本人は、この選曲を「ほんの気まぐれ」と書いていますが、実はきれいな締めくくりかも。テレマンはバッハと親しく、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親でもありました。

ここは1楽章の後半が一本でフーガ風になっていますが、上手に処理しています。2声に聴こえます。バッハよりもこちらの方がトランペット向きかな?

ジャケットに使われている絵はイギリスの彫刻家ジョン・デイヴィスが1998年に描いたパステルと鉛筆による《Be a Phoenix》という作品。炎の中から蘇るフェニックスのような人物が描かれています。

バッハの音楽にトランペットというまったく別の身体を与えて蘇らせているフリーマン=アットウッドも、この絵が「J.S.バッハを束の間、別の姿へと再想像する」というアルバムの発想をよく表していると書いていますね。

録音にはかなりこだわっているようで、自然に消える残響とトランペットを柔らかく捉えています。アタックの際の微妙な音色感や高音の伸びやかさが決して割れずに捉えられていますね。数多くの録音でプロデューサーを務めてきただけあって、そのあたりにもこだわりが感じられます。Qobuzでは192kHzの最高音質での配信。

バッハの時代には存在しなかった現代のトランペットで、バッハが書かなかった無伴奏作品を作る。考えてみれば、相当にチャレンジングな企画です。けれどもその根底にあるのはバッハ自身が生涯にわたって続けていた編曲、転用、即興、そして一つの音楽を別の編成へ生まれ変わらせるという営み。

こんなバッハがあってもいいんじゃないでしょうか。

学者でもあり、録音プロデューサーでもあり、そしてトランペット奏者でもあるフリーマン=アットウッドならではの、知的でありながら遊び心にも満ちたアルバムでありました。

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作曲家別記事総目録

キム・セヒョンが贈る「パリからの花束」 ショパンとフォーレ

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今晩は、2026年9月4日にWarner Classicsからリリースされた、韓国の若きピアニスト、キム・セヒョンによる《Chopin & Fauré》を聴きます。

収録作品は以下の通り。

ガブリエル・フォーレ(1845–1924)

1.《夢のあとに》Op.7-1 キム・セヒョンによるピアノ独奏編曲
2.舟歌 第1番 イ短調 Op.26
3.ヴァルス=カプリス 第1番 イ長調 Op.30
4.即興曲 第2番 ヘ短調 Op.31

フレデリック・ショパン(1810–1849)

《12の練習曲》Op.25
5.第1番 変イ長調
6.第2番 ヘ短調
7.第3番 ヘ長調
8.第4番 イ短調
9.第5番 ホ短調
10.第6番 嬰ト短調
11.第7番 嬰ハ短調
12.第8番 変ニ長調
13.第9番 変ト長調
14.第10番 ロ短調
15.第11番 イ短調
16.第12番 ハ短調

17.夜想曲 第8番 変ニ長調 Op.27-2

シャルル・トレネ(1913–2001)/ヴァルター・アイガー(1917–1991)

18.《パリの4月》 アレクシス・ワイセンベルク編曲

キム・セヒョン(ピアノ)

録音:2025年12月27日~29日、パリ、サル・コロンヌ

キム・セヒョンは2007年、韓国・ソウル生まれ。2021年にアメリカへ渡り、ウォルナット・ヒル芸術高校、ニューイングランド音楽院プレパラトリー・スクールでペク・ヘソンに師事。2024年秋からはハーバード大学とニューイングランド音楽院の共同学位課程に入り、ハーバードでは英文学、NECではピアノを学んでいます。現在はダン・タイ・ソンとペク・ヘソンに師事しています。

彼の名前を一躍世界に知らしめたのが、2025年3月のロン=ティボー国際コンクール。3月30日の決勝でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏し、第1位を獲得。さらに聴衆賞、プレス審査員賞、パリ市音楽院賞も受賞しています。面白いのは年齢で、決勝当日はまだ17歳。翌3月31日が18歳の誕生日でした。結果発表後には、何と予告なしにもう一度ラフマニノフの第3協奏曲を演奏することになったそう。

2007年生まれということは、録音のときにはまだ18歳。すごいですね、才能のある人というのは・・・。

今回のアルバムには、ブックレットに本人が書いた文章があって、これがなかなか示唆を与えてくれます。

アルバム全体の中心にあるのは「パリ」です。ショパンもフォーレも、そしてキム自身もパリ生まれではありませんが、それぞれがこの街へやって来て、人生の重要な転機を迎えました。キムはこのアルバムを「パリからの花束」と考えています。

冒頭はフォーレの歌曲《夢のあとに》を自らピアノ独奏用に編曲したもの。そして最後には、シャルル・トレネとヴァルター・アイガーによるシャンソン《パリの4月》を、アレクシス・ワイセンベルクが編曲したピアノ版を置いています。歌から生まれた二つのピアノ作品でアルバムの両端を囲み、その間にフォーレとショパンを配置した構成です。

キムは、フォーレの音楽にはショパンからの強い影響があると書いています。また、このアルバムに収められた作品の多くを「歌」や「踊り」として捉えているようです。単にフォーレとショパンを並べたのではなく、「パリ」「歌」「踊り」という共通項から一つのプログラムを作ったのですね。

早速聴いてみます。

まずフォーレの《夢のあとに》。もともとは歌曲ですが、キム自身の編曲によるピアノ版です。美しいアレンジですね。旋律を右手でただ歌わせるだけではなく、テンポには微妙な揺れがあり、それが心地良いです。時に美しいアルペジオを入れて、ピアノ自体に夢見るような表情を与えていきます。このアルバム全体が「歌」を大切にしていることを、最初の一曲で示しているようです。

続く《舟歌第1番》は1882年頃の作品。フォーレは生涯に13曲の舟歌を書きましたが、その最初の一曲。流れるような伴奏の上に旋律が浮かび上がります。キムの演奏は、音を大きく膨らませるというより、細かな色合いを変えながら流れを作っていくタイプでしょうか。繊細な音を聴かせます。中間部では右手のメロディがよく歌います。

《ヴァルス=カプリス第1番》になると一転して軽快で華やか。ワルツの軽やかさと、サロン的なきらめきをもつ曲ですね。ただ華麗に弾き飛ばすのではなくて、細かなルバートやサッと変わる音色を使いながら表情をつけています。このあたりにはキムの個性がよく出ているように思います。最後はとても鮮やかで、若々しさが感じられますね。

《即興曲第2番》はさらに動きが活発になり、常動曲のよう。キムは軽々と弾いていきます。そしてショパンの《練習曲》へ自然につながっていきます。フォーレの初期作品にはショパンの影響がかなり強く感じられますよね。この並べ方で聴くと、その関係がよくわかります。

そしてアルバムの中心となるのが、ショパンの《12の練習曲》Op.25。この曲集についてキムは、後世につけられた愛称にとらわれる必要はないと書いています。第1番から「エオリアン・ハープ」を思い浮かべるのではなく、彼にとっては子供の頃の綿菓子と桃色の空が見える。第2番は夜眠れなくさせた蚊、第3番はユニコーンになりたいポニー、第4番は、弟を追いかけながら床のレゴを踏んでしまう女の子なのだそう・・・。とても自由ですね。まだあまり先入観を持たない若者らしい言葉です。

そして聴き手の私たちも、音楽から何を感じ、何を思い浮かべるかは私たち自身に委ねられているのですよね。この演奏から自由にイマジネーションを膨らませていくのもまた楽しい。キムにとって《練習曲》とは、指の訓練だけでなく、そうしたイメージを音として生命あるものにするための作品なのでしょう。

キムの演奏は、技巧を前面に出すというより、各曲の性格の違いや内声、フレーズの流れを丁寧に描き分けていく印象です。速い曲のテンポはかなりのものですが、機械的にならず、この速さでもテクニックを見せつけるようには聴こえてきません。ゆっくりした曲では長い旋律線をよく歌わせます。

12曲を続けて聴くと、単なる難曲の連続ではなく、表情の異なる小さな情景が次々に現れる、一つの大きな組曲のようにも感じられます。若さに任せて一気に弾き切るタイプではなく、細部をかなり考えながら一曲一曲の性格を描こうとしている演奏に聞こえました。そして一曲一曲には、彼が既成概念にとらわれずに描いた物語や情景があるように聴こえてきます。

最後の第12番では実に力強いタッチを聴かせます。こうして12曲を通して聴いてみると、全体の流れもかなり周到に考えられているように感じますね。そのあたりを「よく練られている」と感じるか、少し「あざとい」と感じるかは、聴き手によって分かれるところかもしれません。

Op.25のあとに置かれた夜想曲第8番 変ニ長調 Op.27-2は、ショパンの夜想曲の中でも特に美しい作品ですね。練習曲全曲を聴いた後だけに、ここで時間がゆっくり流れ始めるようです。キムの叙情的な歌わせ方をじっくり聴くことができます。

最後は《パリの4月》。

シャルル・トレネとヴァルター・アイガーによるシャンソンを、アレクシス・ワイセンベルクがピアノ独奏用に編曲した作品です。ワイセンベルクは1950年代にトレネの歌曲を編曲し、「Mr. Nobody」という匿名名義で録音していました。なぜ匿名にしたのでしょう。大ピアニストがこういうシャンソンをアレンジして弾くのは、もしかすると少し恥ずかしかったのかも。1950年代だと、今とはまた違った感覚があったのかもしれませんね。

この曲、こちらでも取り上げていました。

picolist.hateblo.jp

最後に肩の力が抜けて、少し洒落たパリの空気が戻ってきます。しかし曲そのものはかなりピアニスティックで、そう簡単に弾ける曲ではありません。それをキムは実におしゃれに弾いていますね。素敵です。

フォーレの《夢のあとに》で始まり、《パリの4月》で終わる。この終曲があることで、アルバム全体のコンセプトがきれいにまとまります。

録音もとてもいいです。サル・コロンヌでの録音ですが、ピアノを必要以上に近く捉えず、適度な空間を残しています。弱音の細かなニュアンスもよく聞こえ、低音にも十分な厚みがあります。キムの特徴である細かな声部や音色の変化を聴くには、とても相性のよい録音だと思います。

フォーレとショパンを「パリ」「歌」「踊り」で結び、《夢のあとに》と《パリの4月》で全体を囲む。そしてショパンの《練習曲》にも、昔からの愛称ではなく自分自身のイメージを持ち込んで、自分が音楽をどう聴き、どう一枚のアルバムを作るかという考えがはっきりしています。19歳でこれはすごいこと。

ブックレットの結びの言葉がとても素敵です。彼は昔から、花束をもらうことが苦手だったとのこと。どんなに花を注意深く美しく飾っても、それがやがて消えてしまうものだという考えを忘れることができなかったそうです。そして、自然の中で偶然、野の花と出会うことのほうを好んできたと。

しかし今になって、花束の美しさとは、意図的に作り上げられた美しいデザインそのものにあるのではなく、その背後にある「心」にあるのだと気づいたそうです。そしてこう結んでいます。

やがて失われてしまうことへの恐れ。
人からどう見られるかという恐れ。
それでも情熱と希望によって、それらを乗り越えて花を差し出すこと。
花を贈る人の心の地図は、音楽家の心がたどる本質的な循環そのものなのです。

だから私は今、皆さんに「パリからの花束」を差し出します。
その花束を腕に抱いたとき、その香りの中に身を委ねてください。

では、音符はどうなるのでしょう。
花びらのように漂い、落ちてゆき、やがて忘れ去られてしまう音符は。
最後に残るのは、いつも「心」なのです。

まだ19歳。これからどのようなピアニストになっていくのか、とても楽しみなデビュー・アルバムでありました。

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ラヴェルの管弦楽法をたどる《Tableaux》 スウェンセン/ボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団

今晩は、2026年9月4日にAlpha Classicsからリリースされた、ジョセフ・スウェンセン指揮、ボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団による《Tableaux》を聴きます。

収録作品は以下の通り。

モーリス・ラヴェル(1875–1937)
《マ・メール・ロワ》バレエ版 M.62
1.前奏曲
2.紡ぎ車の踊りと情景
3.眠れる森の美女のパヴァーヌ
4.美女と野獣の対話
5.親指小僧
6.パゴダの女王レドロネット
7.アポテオーズ ― 妖精の園

ロベルト・シューマン(1810–1856)
《謝肉祭》Op.9
モーリス・ラヴェルによる管弦楽編曲
8.前口上
9.ドイツ風ワルツ
10.パガニーニ
11.ドイツ風ワルツ(再現)
12.ペリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進

モデスト・ムソルグスキー(1839–1881)
《展覧会の絵》
モーリス・ラヴェルによる管弦楽編曲
13.プロムナード I
14.グノーム
15.プロムナード II
16.古城
17.プロムナード III
18.テュイルリー
19.ビドロ
20.プロムナード IV
21.卵の殻をつけたひなどりのバレエ
22.サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ
23.リモージュの市場
24.カタコンブ
25.死者とともに死者の言葉で
26.鶏の足の上に建つ小屋(バーバ・ヤガー)
27.キエフの大門

演奏者
ジョセフ・スウェンセン(指揮)
ボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団

昨日聴いたフランソワ=グザヴィエ・ポワザのラヴェルのピアノ編曲に続き、今週はもう一つラヴェルの編曲作品集が出ました。おもしろいことにこちらはピアノから管弦楽という、昨日とは逆のアレンジ。自作を自ら管弦楽化した《マ・メール・ロワ》、シューマンの《謝肉祭》から4曲を管弦楽化した珍しい作品、そして管弦楽法の傑作として知られるムソルグスキーの《展覧会の絵》。作曲家としてのラヴェルと、他の作曲家の作品に新たな色彩を与えるオーケストレーターとしてのラヴェルを、一枚のアルバムで聴き比べるという企画です。

指揮しているジョセフ・スウェンセンは、ノルウェー系、日本系のルーツを持つアメリカ人で、ニュージャージー州ホーボーケンに生まれ、ニューヨークのハーレムで育った指揮者、ヴァイオリニスト、作曲家。もともとはヴァイオリニストとして国際的に活躍し、1990年代半ばから指揮活動を本格化しました。1996年から2005年までスコティッシュ室内管弦楽団の首席指揮者を務め、その後もパリ室内管弦楽団、BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団、マルメ歌劇場などで要職を歴任。2024年9月からボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団の音楽監督を務めています。作曲家・編曲家としても活動し、プロコフィエフ作品の管弦楽化や、ワーグナーの《指環》4部作を一夜の作品へと再構成した《Ring Odyssey》なども手掛けています。

また作曲家としても活躍していて、広島への原爆投下で犠牲となった叔母に捧げられた尺八独奏と管弦楽のための《Requiem for Shizue》(1995)などの作品もあります。日本とのつながりも感じさせますね。1988年1月のN響第1041回定期演奏会では、なんとヴァイオリニストとしてテオドール・グシュルバウアー指揮でシベリウス《ヴァイオリン協奏曲》を演奏しています。また2023年9月30日には東京・サントリーホールで、ポーランドのNFMレオポルディヌム管弦楽団を指揮しているので、聴かれた方もいるでしょう。

ボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団は、1850年創設のサント=セシル協会管弦楽団を前身とし、現在は約100名の奏者を擁するフランス有数のオーケストラ。ボルドー国立歌劇場の一部門として、ボルドー・オーディトリウムでの交響楽公演だけでなく、グラン・テアトルでのオペラやバレエにも参加しているオケです。アラン・ロンバール、ハンス・グラーフ、クワメ・ライアン、ポール・ダニエルらが歴代の指揮者を務め、2024年9月からスウェンセンが音楽監督に就任しました。Alpha ClassicsやWarnerなどへの録音も多く、50点を超えるディスコグラフィを持っています。

ちょっとワインを呑みながら聴きたくなるオケです。

早速聴いてみます。

アルバムの最初に置かれているのはラヴェル自身の《マ・メール・ロワ》。これはもう有名ですね。

もともとは彫刻家シプリアン・ゴデブスキの子どもたち、ミミとジャンのために書かれたピアノ連弾作品で、1910年に5曲からなる組曲として完成しました。ラヴェルは翌1911年にこれを管弦楽化し、バレエ化するにあたって《前奏曲》と《紡ぎ車の踊りと情景》を加えています。

この曲は木管は基本的に2管編成で、トランペット、トロンボーン、チューバを置かない比較的小さな編成。それによって《マ・メール・ロワ》特有の親密で透明な色彩が生まれています。

この《前奏曲》冒頭は不思議な雰囲気で、オケの音は柔らかく、フルート、オーボエ、弦のソロと実に美しい。この曲全体を貫く動機を木管が吹きます。いかにもフランスのオケらしい雰囲気があります。何かが始まる予感が感じられる演奏。

《紡ぎ車の踊りと情景》では紡ぐ音が常に絶えず続きます。

続く《眠れる森の美女のパヴァーヌ》、これは組曲版だと第1曲になりますね。第2フルートのソロに、弱音器付きホルンとヴィオラのピッツィカートが添うという、ちょっと珍しいパターン。さすがラヴェル、思いもよらない組み合わせですよね。

私はこの曲を2ndフルートとピッコロ担当で吹いたことがありまして、2ndだからと高をくくっていたら冒頭から大ソロなので緊張した覚えがあります。どうして1stに吹かせないの、ラヴェル様。まあこの後1stのソロに受け継ぐので仕方ないのですが。

ここでの演奏も木管それぞれの柔らかなソロが紡ぎ出す響きが、ほのかな柔らかさを生みます。そしていかにも物語が進んでいくようなパッセージと牧歌的なクラリネットのソロ。あくまでソフト。

《美女と野獣の対話》ではクラリネットが美女、低音のコントラファゴットが野獣を演じ、最後にはハープのグリッサンドとともに野獣が王子へと変身する面白い曲。コントラファゴットってこの前ちょっと聞いたのですが、楽器自体も高価で、国内では奏者や楽器の確保に苦労するオーケストラもあるとか。第九にだって出てくるから欠かせない楽器なんですけどね。その珍しいソロが聴けるのがこの曲です。

低音から響いてくるコントラファゴットも、いかつくなりすぎず、どこか柔らかい響きなのが印象的。この後のヴァイオリンソロやチェロソロも妖艶です。

《親指小僧》では弦楽器のさまようような動きの中でオーボエが歌い、クラリネット、フルートと引き継がれますが、とても語りのよう。途中に鳥の声が現れますが、要は帰り道の目印に撒いたパンを鳥が食べちゃうんですね。その後、弦のハーモニクスの中をハープもハーモニクス、チェレスタも入って非常に幻想的。スウェンセンはテンポを粘りすぎずに進めていきます。

《パゴダの女王レドロネット》では五音音階と打楽器によってラヴェルの想像した東洋世界が広がります。ピッコロが活躍して、私も楽しんだ思い出があります。ここはさすが、ピッコロ奏者がうまいなぁ。こうやって聴くと、いかにも当時の東洋趣味が実際のものとは違う幻想性に富んだものであったのかが感じられますね。

そして最後の《妖精の園》は弦楽器から始まり、独奏ヴァイオリン、ハープ、チェレスタ、木管が加わって巨大な大団円へ向かいます。ここではこのボルドーのオケの弦楽器パートの美しさが光りますね。

続くシューマンの《謝肉祭》。これは珍しい作品ですね。知らなかった。ラヴェルとシューマンって全然合わないように思うのですが、アレンジしていたんですね。

ブックレットによると、ラヴェルは1914年、ヴァーツラフ・ニジンスキーのためにシューマンのピアノ曲《謝肉祭》を管弦楽化し始めたのですが、完成しないまま残されたのは《前口上》《ドイツ風ワルツ》《パガニーニ》《ペリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進》の4曲だけでした。この録音では《ドイツ風ワルツ》が《パガニーニ》を挟んで繰り返されています。

そしてこれらの編曲が出版されたのはラヴェルの死後ずっと後、1975年の生誕100年の年でした。ラヴェルは《謝肉祭》全体を完成させようとしていた形跡もあって、彼が所持していたピアノ譜には、《キアリーナ》《ショパン》《フロレスタン》《オイゼビウス》についても楽器編成を示す書き込みが残されているとのことです。

さらにブックレットには、ラヴェルがシューマンをあまり好んでいなかったという話も出てきます。画家ジャック=エミール・ブランシュとの初見演奏の集まりでは、シューマンの音楽は禁止されていたというのです。ただしベートーヴェンやワーグナーなど他のロマン派も同様だったというので、単純な「シューマン嫌い」と考えるより、ラヴェルと19世紀ドイツ・ロマン派との距離感を見る話として面白いところでしょう。でもやはりラヴェルとシューマンは意外な組み合わせですよね。

さて、実際に聴いてみると、ピアノで慣れ親しんだ響きとはずいぶん違います。弦、管が交互にフレーズを交わして主部に入り、途中オーボエやフルートのソロを交えたりしながらも弦楽器が主導しています。シューマンとラヴェルの融合。ちょっと独特の世界。これはユニークですね。

正直言えば、あまりラヴェルっぽくないかな。ラヴェルはシューマンという、ちょっと苦手な作曲家の作品を前にかなり苦労したんじゃないかなと想像します。でも時に弦の柔らかなパッセージや、それを受け継ぐ木管にラヴェル独特の穏やかな感性が感じられました。非常に珍しいラヴェルの一面を見たように思いました。

最後はムソルグスキーの《展覧会の絵》。これはもう説明不要でしょう。ムソルグスキーが、友人で1873年に39歳で急逝した画家・建築家ヴィクトル・ハルトマンの遺作展に触発されて書いたピアノ組曲を、ラヴェルがアレンジしたもの。

この作品には多くの管弦楽編曲がありますね。私は昨年6月に山田和樹さんがバーミンガム市交響楽団を振ったヘンリー・ウッド編曲の《展覧会の絵》の実演を聴きましたが、かなり派手で荒々しくて面白かったけれど、それは今日もっとも広く演奏されているラヴェル版を知っているから、そう感じたのですね。やはりラヴェルのアレンジは非常に洗練されていると思います。

ブックレットによると、ラヴェルは1922年5月1日、クーセヴィツキーに「《キエフの大門》がようやく完成した。私は最後から始めた」と書き送っています。しかも《キエフの大門》について「管弦楽化するうえで最も面白くない曲」だと思っていたというのです。ちょっと意外ですよね、あの曲からアレンジし始めたというのは。

最初のトランペットによる《プロムナード》は柔らかい音色。全体にこのボルドーのオケは非常にソフトな音色で、フランスのオーケストラらしい個性が感じられますね。個々の奏者のヴィルトゥオジティを前面に押し出すというより、アンサンブル全体で音色を揃え、自然に響きを作っていくような印象です。

《プロムナード》は戻ってくるたびに異なる管弦楽の色をまとい、特に木管の柔らかな美しさが印象的。《古城》のアルト・サクソフォーンは哀愁を帯びた音色で旋律を奏で、最後の長い余韻が印象的。《ビドロ》は速めのテンポで前進感があります。

《サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ》では弱音器付きトランペットが一人の人物を鋭く描き、《カタコンブ》では暗い響きが空間そのものを変えますが、このオケの金管アンサンブルの音色はなかなかいいですね。ドイツともアメリカとも違う、フランス的な洗練された響きとハーモニー。

そして《バーバ・ヤガー》。ここは突然、弦が非常にキレのある演奏を聴かせてテンションが上がります。そして期待の《キエフの大門》。ここはさっき《カタコンブ》で聴かせてくれた、少し細身の金管アンサンブルの音が特徴的。鐘の音はかなり直接的な金属音で、これもサウンドとして新鮮です。改めて聴くと、この巨大なクライマックスは原曲を尊重しながらも、ほとんどラヴェル自身の作品のような音色感がありますね。

スウェンセンの指揮は、このラヴェル版が本来持つ洗練された美しさを引き出しているように感じます。アンサンブルもアインザッツを鋭くピッタリ揃えて輪郭を立てるというよりは、それぞれの呼吸の中で自然にアンサンブルが合っていくような感じ。それでいてオーケストラの音色感が一定の方向を向いているのはさすがです。

全体にものすごく派手で圧倒的な演奏、というよりは、ラヴェルのオーケストレーションをデフォルメせず、あるがままに演奏した、というように感じました。

録音は2025年8月、フランス、ボルドー国立歌劇場のオーディトリウムで行われています。残響を深く取り込むタイプの録音ではなく、木管の音像は少し大きめですが柔らかくピックアップされ、弦楽器も硬さがなく、その柔らかな響きの中に細かな表情がよく聴こえてきます。

《展覧会の絵》はオーディオ的な面白さを強調する録音も多いのですが、ここでは極端な演出をせず自然。それでも《キエフの大門》の鐘の音だけはかなり生々しく、金属の質感が直接こちらへ飛んできます。Qobuzの配信は24bit/96kHzで、Apple Musicは残念ながらAtmosの配信はありません。

こうしてアルバムの曲目を全部聴いていくと、《マ・メール・ロワ》が1911年、《謝肉祭》が1914年、《展覧会の絵》が1922年。約10年間にわたるラヴェルの管弦楽法を、作曲・編曲の両面からたどることのできるプログラムになっています。

このアルバムのタイトル、《Tableaux》、つまり「絵」という題名も、《展覧会の絵》だけを指しているのではなくて、ラヴェルがオーケストラによって描き出したさまざまな「絵」を、一枚の展覧会のように並べて見せているところから来ているのでしょう。

改めてラヴェルのオーケストレーションの面白さと、その変遷を辿ることのできた興味深いアルバムでありました。

私の作曲家別記事総目録はこちら。

編曲で聴き直すラヴェル ポワザ《Ravel Transcriptions》

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今晩は、2026年9月4日にApartéからリリースされた、フランソワ=グザヴィエ・ポワザの《Ravel Transcriptions(ラヴェル・トランスクリプションズ)》を聴きます。

収録曲は以下の通り。

モーリス・ラヴェル(1875–1937)

1.《ダフニスとクロエ》M.57より「ダフニスの軽やかで優雅な踊り」
ラヴェル編曲、ピアノ独奏

《ダフニスとクロエ》第2組曲 M.57b
ヴャチェスラフ・グリャズノフ編曲、2台ピアノ
2.夜明け
3.パントマイム
4.全員の踊り

《スペイン狂詩曲》M.54
ラヴェル/ティル・リンゲンベルク編曲、2台ピアノと打楽器
5.夜への前奏曲
6.マラゲーニャ
7.ハバネラ
8.祭り

《3つの歌》M.69
ラヴェル編曲、声とピアノ
9.ニコレット
10.楽園の美しい三羽の鳥
11.ロンド

《シェエラザード》M.41
ラヴェル編曲
12.アジア(声とピアノ)
13.魔法の笛(声、フルートとピアノ)
14.つれない人(声とピアノ)

《5つのギリシャ民謡》M.A 9より
15.向こうの教会へ
ラヴェル編曲、フルートとピアノ

《子供と魔法》M.71より
16.ファイヴ・オクロック・フォックストロット
アンリ・ジル=マルシェックス編曲、ピアノ独奏

17.《The Lamp Is Low》による即興
ピーター・デローズ、バート・シェフターの作品に基づく即興

フランソワ=グザヴィエ・ポワザ(ピアノ)
ヴャチェスラフ・グリャズノフ(ピアノ)
チャオ=ユアン・チャン(打楽器)
ティル・リンゲンベルク(打楽器)
ブレンダ・プーパール(メゾソプラノ)
マリー=クロード・シャピュイ(メゾソプラノ)
エレナ・マシュレル(フルート)

フランソワ=グザヴィエ・ポワザは1989年、フランスのグルノーブル生まれのピアニスト。ジュネーヴ音楽院、ハンブルク音楽演劇大学、ジュリアード音楽院、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミーなどで学び、エフゲニー・コロリオフ、ネルソン・ゲルナー、マッティ・ラエカリオ、ベネデット・ルーポらに師事しています。12歳のころにはマルタ・アルゲリッチに才能を認められ、日本のパシフィック・ミュージック・フェスティバルにも招かれました。2011年のチャイコフスキー国際コンクールでは審査員特別賞、2013年のクララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールではファイナリストとなっています。

近年、ポワザが特に力を注いできたのがラヴェル。2024年末には、ピアノ独奏曲だけでなく、協奏曲、室内楽、歌曲まで含めた6枚組《Ravel: The Complete Works with Piano》を完成させています。ブックレットのインタビューによれば、ラヴェルとの出会いは5歳のときに聴いた《ボレロ》。20歳ごろには《クープランの墓》に夢中になり、30歳ごろにはラヴェルのピアノ作品のほとんどを暗譜していることに気づいたといいます。今回の《Ravel Transcriptions》は、その全集を録音し終えたあと、なお残されていた「編曲」という世界に目を向けたアルバムです。

それでは早速聴いてみます。

まず第1曲は、《ダフニスとクロエ》から「ダフニスの軽やかで優雅な踊り」。これはラヴェル自身によるピアノ独奏への編曲です。大規模なバレエ音楽《ダフニスとクロエ》を考えると、アルバムがまずピアノ1台という最小の編成から始まるのが面白いところ。ラヴェル自身がオーケストラの音楽をどのようにピアノへ移したのかを聴く、今回のアルバムへの短い序章ともいえそうです。ピアノの音は柔らかく繊細。しかしシンプルな曲かと思いきや、かなり音数が多くて、いかにもラヴェル。《水の戯れ》のような瞬間もあります。そしてたった2分の曲なのに、明らかなラヴェルのピアニズム。これはラヴェルを徹底的に弾いてきたポワザならでは。

第2曲から第4曲は、ヴャチェスラフ・グリャズノフ編曲による《ダフニスとクロエ》第2組曲。「夜明け」「パントマイム」「全員の踊り」というバレエ終盤の約15分を2台ピアノで演奏し、編曲者自身がポワザと共演しています。《ダフニスとクロエ》といえば、20世紀の管弦楽作品の中でも屈指の色彩を持つ作品だけに、オーケストラをすべて取り払って2台のピアノだけにするというのは、一見するとラヴェルの魅力の最も大きな部分を失ってしまうようにも思えます。しかしポワザは、オーケストラの音色そのものは再現できなくても、その代わりに親密さ、明瞭さ、流動性が得られると語っていて、実際、鮮やかなオーケストレーションの影に隠れがちな細かい音、特に和声がとてもよく感じられます。

そして編曲を「漏斗」のようなものと表現し、音楽の情報を凝縮することで、原曲の中にある線や細部がより明らかになると書いていますが、まさにその表現がぴったり当てはまる演奏。非常に魅力的なアレンジです。オーケストラの色彩を一度取り払う、というよりもピアノ独自の色彩がここにはあって、大好きなこの曲をまた違う角度から聴けたことはとても嬉しい。

演奏もムーディーにペダルで誤魔化すのではなく、しっかりしたタッチと音色の変化で、この曲の煌びやかさから壮大さ、密やかさまで表現しています。そして有名なフルート・ソロの部分。美しく立ったピアノの音で弾かれることで、この部分に新しい光が当たり、実に美しい。そして最後の「全員の踊り」は盛り上がります。このピアノだけにできる打楽器的なリズムは、オーケストラよりもむしろ舞曲。思わず合唱のパートを歌ってしまいそう……。二人ともノリノリで終わります。これは2台ピアノのレパートリーとしてすごく面白いんじゃないでしょうか。

第5曲から第8曲は《スペイン狂詩曲》。これもラヴェルを代表する管弦楽作品ですが、今回は2台ピアノに2人の打楽器奏者が加わります。ラヴェル自身による2台ピアノ版を基礎に、ティル・リンゲンベルクが打楽器パートを加えたもので、ポワザによれば、よりオーケストラ的な響きを作るための試みとのこと。

「夜への前奏曲」のあのなんとも言えない濃厚な夜の雰囲気が、たった2台のピアノで表現されています。そして低音の打楽器のトレモロが静かに鳴って、よりこの夜の不気味さを増し、またマリンバやシンバルも加わって、音色がピアノだけの世界から広がっていきます。「マラゲーニャ」はリズムが弾んで、パーカッション群が加わることでここでも色彩的。ただ、さすがラヴェル自身の編曲で、ピアノ2台だけでも十分面白いかも。「ハバネラ」は非常にチャーミング。ピアノと打楽器類が混じって独特のソノリティ。そして最後の「祭り」へと進みます。後半にはカスタネットやタンバリンも入ってスペイン的な雰囲気を盛り上げます。リズムそのものが色彩を生み出している作品ですから、2台ピアノに打楽器が加わるととても賑やか。楽しい雰囲気です。

でも正直言うと、私はピアノだけの方が好きかも……。面白いのですが、少し余計なものが入りすぎているようにも感じます。むしろラヴェル自身による2台ピアノ編曲の見事さが浮かび上がってきて、打楽器を加えない方がかえってこの曲の良さがよく見えるんじゃないかな……という気もしました。

第9曲から第11曲は《3つの歌》。これはもともとラヴェル自身の詩による無伴奏混声合唱曲で、今回はブレンダ・プーパールのメゾソプラノとピアノで演奏されます。

「ニコレット」はかなり風刺の効いた曲で、プーパールはとても演技的な歌唱。これはかなり辛辣ですね。狼からは逃げ、美しい若者の誘惑にも耐えたのに、最後には醜い金持ちの老人の「金貨」に負ける。中世の牧歌風の体裁を借りた、ラヴェルのかなり意地悪な小話です。

「楽園の美しい三羽の鳥」は、第一次世界大戦の影が濃く差している曲です。3羽の鳥の色は青、白、赤。これは明らかにフランス国旗のトリコロールを思わせます。女性と鳥たちとの民話風の対話の中に、所々「私の恋人は戦争に行っている」と繰り返されます。最初の二羽が「恋人の眼差し」と「口づけ」を届け、最後の赤い鳥が運んでくるのは「真紅の心臓」。ここで恋人の戦死が暗示されます。そして最後の、「私の心も冷たくなってゆく。それも一緒に持っていって」という結びは、とても痛切ですね……。第一次世界大戦の影を感じさせる独特の美しさがあります。

「ロンド」は、「おかあさんといっしょ」で歌われていた「妖怪しりとり」みたいに、あちらのさまざまな妖怪の名前が次々と飛び出してきます。ただし単なる妖怪図鑑のような歌ではなく、最後には完全に世代間の風刺になる。老人たちが若者に「あれは危険、これは危険」と言い続けた結果、世界から不思議や幻想そのものが消えてしまった、というかなり洒落た詩です。プーパールは茶目っ気たっぷりの歌で楽しませてくれます。ラヴェルの悪戯心に溢れた作品。そして大人数の合唱から一人の声とピアノへと縮小されることで、曲と詩の持つ表情がより現れてくるのではないでしょうか。

第12曲から第14曲は《シェエラザード》。「アジア」「魔法の笛」「つれない人」の3曲からなる歌曲集で、原曲は独唱と大オーケストラのために書かれています。ここでは「アジア」と「つれない人」はマリー=クロード・シャピュイのメゾソプラノとポワザのピアノ、「魔法の笛」ではそこにエレナ・マシュレルのフルートが加わります。

「アジア」は「想像上のアジア」ですね。1900年前後のフランス人が夢見た異国――ペルシャ、インド、中国、アラビアまでが一つになった幻想世界への強い憧れの歌。官能と残酷さを含む夢になっています。最後にシンドバッドのように帰国し、自分が今度は「物語を語る側」になるのも面白いところ。もともとはオーケストラと歌の曲ですから、ここではポワザのダイナミックなピアノが光りますね。ピアノと歌の曲でここまでピアノを鳴らせるのも、原曲がオーケストラだからでしょう。

次の「魔法の笛」は、原曲でもフルートが重要な役割を担うため、この三重奏による編成は実に自然に思えます。

実はこの曲、ものすごく懐かしい。というのは、はるか前世紀、私がまだ学生だった頃にフランス歌曲の先生とともにリサイタルで吹いた曲です。やはりピアノとフルート、声楽で演奏しました。あの頃は何も分かっていなかったな……。ただ私は実はフランス歌曲をその先生に習っていて、それ以来フランス系の歌曲はすごく好きになったのです。先生のリサイタルでフルートで共演できたのも嬉しい思い出。

そしてこれはとても官能的な詩ですね。主人が眠っている間、女性は外にいる恋人の笛を聴いています。笛の音一つ一つが窓を越えて彼女の頬に届き、「口づけ」になっていきます……。フルートは単なる伴奏楽器ではなく、「外にいる恋人」そのものなんですね。ですから、この曲に本物のフルートを入れるのはとてもこの詩に合っています。

3曲目の「つれない人」は、とても艶めかしい妖しさのある歌。語り手が惹かれている「若い異国人」は、「少女のような瞳」「産毛のある顔」「女性的な足取り」を持ち、その両性的な魅力とあわせて、あえて曖昧で官能的な世界が作られています。「入っておいで、ワインを飲んでいって」と誘うのですが、若者は応じず、優雅な仕草だけを残して去ってしまう。それで題名が《L’Indifférent》――「無関心な人」「つれない人」というわけですね。ここでは歌も艶めかしいけれど、ピアノもとても雰囲気があります。管弦楽で聴くよりも好きかも。

第15曲は《5つのギリシャ民謡》から「向こうの教会へ」。原曲は独唱とピアノのための歌曲ですが、ここでは声をフルートに置き換えたフルートとピアノ版で演奏されます。わずか1分半ほどの小品ですが、これは素敵ですね。ラヴェルの異国趣味的な陰影がこの短い曲の中に溢れています。ちょっとアンコールに吹いてみたくなる曲。

第16曲は《子供と魔法》から「ファイヴ・オクロック・フォックストロット」。アンリ・ジル=マルシェックスによるピアノ独奏版です。ここでは、それまでとはまた違ったラヴェルの顔が現れます。語り口が上手いですね。少しずつ少しずつ語り始め、やがて独特な世界へ。ラヴェルはジャズに強い関心を持っていましたが、この曲にもジャズや当時のダンス音楽の影響がはっきりと現れているように感じます。ちょっとサティのようなおしゃれなメロディから、ラヴェルらしく変容されたリズムが面白い。ポワザのピアノはここでもオーケストラティック。色彩を見事に変えて、まるでオーケストラのよう。うまいピアニストですね。

ポワザは今回のアルバムについて、古代ギリシャ、スペイン、オリエンタリズム、ジャズまで、ラヴェルのさまざまな様式を一つの「万華鏡」として見せたかったと語っていますが、まさにさまざまな世界が目まぐるしく現れます。

そして最後、第17曲が《The Lamp Is Low》による即興。これはアンコール的で面白いですね。《The Lamp Is Low》は1939年にピーター・デローズとバート・シェフターによって作られたアメリカのポピュラー・ソングですが、その旋律の原型になっているのがラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》。つまり、ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》がアメリカのポピュラー・ソングへ姿を変え、それを今度はポワザがジャズの即興としてラヴェルのアルバムへ連れ戻していることになります。

ポワザ自身、クラシックだけでなくジャズや即興にも親しんでいるピアニストで、時々ジャムセッションもするとか。インタビューではジャズから「時間、空間、沈黙との付き合い方」を学んだと語っています。クラシックではすべての音が書かれた楽譜を与えられるのに対して、即興では何もないところから音楽を作り、一音一音に意味を持たせなければならない。この曲をアルバムの最後に置いたのは、単なるボーナストラックという以上に、ラヴェルの音楽が時代やジャンルを越えて姿を変えていくという、このアルバム全体のテーマを象徴しているように思います。

録音は2026年1月7日から11日、フランスのソワソンにあるCité de la musique et de la danseで行われています。ポワザが使用しているピアノはSteinway Model D。このピアノの良さを隅々まで引き出し、また打楽器や歌、フルートなどをとてもリアルに捉えていて、オーディオ的にも楽しめます。

今回の《Ravel Transcriptions》は、単にラヴェルの管弦楽作品をピアノへ置き換えた「編曲集」というよりも、ピアノ独奏から始まり、2台ピアノ、打楽器、歌曲、フルート、そして最後にはジャズの即興へと編成そのものが次々と姿を変え、一方で作品の世界も古代ギリシャ、スペイン、東洋、民謡、ジャズへと移り変わっていくという構成。ポワザがこのアルバムを「万華鏡」と表現した意味も、こうして曲目を眺めるだけでよく分かりますね。

そしてもう一つ、このアルバムを貫いているのが、彼の「編曲は漏斗のようなもの」という考え方。ラヴェルの華麗な管弦楽の色彩をそのまま再現することはできないけれど、音を少なくし、素材を凝縮することによって、逆にそこに書かれていた旋律線、和声、リズム、構造が見えてくる、と書いていますが、まさにそのとおりの演奏でした。ラヴェルの音楽をいつもとは違う角度から眺めた、ラヴェル好きにはたまらないアルバムでありました。

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作曲家別記事総目録

《マタイ受難曲》のもう一つの姿 バッハ《ケーテン侯レオポルトのための葬送音楽》

今晩は、2026年9月4日にLinn Recordsからリリースされた、Solomon’s Knot(ソロモンズ・ノット)によるJ.S.バッハの《ケーテン侯レオポルトのための葬送音楽(Köthener Trauermusik)》BWV 1143/244aを聴きます。

収録作品は以下の通り。

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685–1750)
《ケーテン侯レオポルトのための葬送音楽》BWV 1143/244a
チャド・ケリー復元

第1部
1.シンフォニア
2.アリア「レオポルトよ、あなたを墓に葬らせはしない」
3.レチタティーヴォ「どうしてそんなことがあり得よう」
4.アリア「たとえ千の涙を流したあと」
5.レチタティーヴォ「そして侯よ、これこそが香料なのです」
6.アリア「行け、レオポルトよ、あなたの安息へ」
7.コラール「ああ主よ、あなたの愛しい天使たちに」

第2部
8.合唱「子らよ、嘆け、その嘆きを全世界へ告げよ」
9.レチタティーヴォ「おお国よ、打ちひしがれた国よ」
10.アリア「悲痛と嘆き」
11.レチタティーヴォ「残酷な稲妻が」
12.アリア「嘆け、忠実なる国よ」
13.レチタティーヴォ「ああ、そうだ!」
14.合唱「戻ってきてください、尊き侯の魂よ」

第3部
15.ディクトゥム「われらには神がおられる」
16.レチタティーヴォ「悲しみと恐怖に満ちた光景よ」
17.アリア「私をお守りください、神よ」
18.レチタティーヴォ「しかし弱い人間は」
19.アリア「喜びのうちに、この世を去ろう」
20.レチタティーヴォ「されば幸いなるかな、あなたよ」
21.ディクトゥム「われらには神がおられる」

第4部
22.コラール「あなたの天使を私とともに行かせてください」
23.アリア「いまはその安らぎのうちに眠りたまえ」
24.レチタティーヴォ「そして、悲しみに沈む侯家よ」
25.アリア「苦しみに満ちた悲嘆を鎮めなさい」
26.レチタティーヴォ「いま私たちは別れます」
27.合唱「私たちの目は、あなたの亡骸を見つめる」

ソプラノ:ゾーイ・ブルックショー、クレア・ロイド=グリフィス
アルト:ケイト・シモンズ=ジョイ、ネイサン・メルシエカ
テノール:トーマス・ハーフォード、デイヴィッド・デ・ウィンター
バス:アレックス・アシュワース、ジョナサン・セルズ

ソロモンズ・ノット
芸術監督:ジョナサン・セルズ

録音:2025年6月6、7日
会場:ドイツ・レーゲンスブルク ドライアイニヒカイツ教会

バッハが器楽曲の超名曲を数多く生んだケーテン時代。1717年から1723年まで宮廷楽長の地位にありましたが、仕えたのはアンハルト=ケーテン侯レオポルト。音楽に理解を示し、バッハとの関係も非常に良好だったようですが、1728年11月19日に33歳で亡くなりました。そして翌1729年3月23日から24日にかけてケーテンで葬送行事が行われ、そのためにバッハが作曲したのがこの《ケーテン侯レオポルトのための葬送音楽》です。バッハはすでにライプツィヒに移っていましたが、かつて仕えたレオポルトのために、この葬送音楽を書いています。

ところが残念なことに、この作品は音楽そのものが全く残っていません。その一方で、ピカンダーによる台本、葬儀の進行、演奏者などについてはかなり詳しい資料が残っています。

ピカンダーは、本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ(1700–1764)。ライプツィヒで官職に就きながら詩を書き、バッハとは《マタイ受難曲》《マルコ受難曲》《コーヒー・カンタータ》など非常に重要で数多くの作品で協力しています。大詩人というより、音楽のための言葉を書くことに優れた職人的な台本作家といった方がよいのかもしれません。《マタイ受難曲》と今回の《葬送音楽》もともにピカンダーが手掛けていること、そして台本の韻律などから、この作品のアリアや合唱のかなりの部分が、《マタイ受難曲》BWV 244や《哀悼頌歌》BWV 198と同じ音楽を用いた、いわゆるパロディ作品であったと考えられています。

今回のチャド・ケリー版が面白いのは、分からない部分まで無理に既存のバッハ作品で埋めず、特にレチタティーヴォについては、バッハがレチタティーヴォをパロディ転用した証拠がないことから、ケリー自身がピカンダーの歌詞に合わせて新しく作曲しています。また第3部を囲む「われらには神がおられる」も、既存のバッハ作品を流用せず、新しく書かれた対位法的な合唱です。

また曲順も現存する台本の順序をそのまま採らないで、アンドルー・パロットの説をもとに、3月23日夜に私的な埋葬が行われ、翌24日に公的な追悼式が行われたという流れを再構成しているのがこのアルバム。

日本の葬儀にたとえるなら、第1部はいわば「お通夜」、第2部以降が「本葬」と考えると、音楽の変化がとても分かりやすいように思います。

演奏しているソロモンズ・ノット(Solomon’s Knot)は、指揮者を置かない歌手と器楽奏者による国際的なバロック・アンサンブルです。面白い名称ですが、この団体については以前以下で取り上げました。

早速聴いてみます。

第1部冒頭のシンフォニアは、カンタータ《わが心には憂い多かりき》BWV 21から採られたもの。

まずバロック・オーボエの音が実にいい。太く、少し木質的な音色で、悲しみそのものを歌っているようです。そして旋律は一見素朴なのに、和声が思わぬところへ動く。改めて「やはりバッハだな」と感じます。葬儀の音楽らしい、静かで深い悲しみがあります。

2曲目「レオポルトよ、あなたを墓に葬らせはしない」は、《マタイ受難曲》の《来たれ、甘き十字架よ》の音楽を使っています。ただし、あのヴィオラ・ダ・ガンバのオブリガートが、ここではリュートによって演奏されます。これがとても印象的で素敵。リュートになると少し素朴で親密な響きになり、それをオルガンの通奏低音が厳粛に支えています。

「レオポルトよ、あなたを墓に葬らせはしない。あなたは私たちすべての心の中に、永遠に安らかな墓を持つのだから」

という歌詞。レオポルトに対する人々の強い思いが伝わります。Alex Ashworthのバスも、悲しみに満ちた包容力のある歌。とてもいい声です。

3曲目「どうしてそんなことがあり得よう」はケリーが作曲した新しいレチタティーヴォ。カウンターテナーのNathan Merciecaが歌います。もちろん当時の時代様式やバッハの作品を研究して作曲しているかと思いますが、確かに歌詞によく合った表情で、既存のバッハの音楽を無理にはめ込むよりも、この方法の方がずっと自然ですね。作曲が非常に優れているからなのですが。

4曲目「たとえ千の涙を流したあと」も《マタイ受難曲》からの音楽。《喜んで私も覚悟を定め》が原曲です。弦楽合奏の上をカウンターテナーが歌います。Nathan Merciecaはここでもいい声です。

5曲目「そして侯よ、これこそが香料なのです」もケリーの新作レチタティーヴォ。テノールを中心に声楽アンサンブルが絡み、単純なセッコではなく、かなり対位法的に凝った書き方がされています。新作部分なのですが、実によくできています。

6曲目「行け、レオポルトよ、あなたの安息へ」は、《マタイ受難曲》の《私はイエスのそばで目覚めていよう》。

バロック・オーボエのソロが実に美しく、通奏低音のファゴットもよく聞こえます。そしてテノールに応答する小さな声楽アンサンブルが密やかで悲しげ。大合唱によって悲しみを大きくするのではなく、棺を囲む人々が小さな声で祈っているようです。

7曲目「ああ主よ、あなたの愛しい天使たちに」は、《ヨハネ受難曲》の終結コラールとしてもよく知られる旋律です。

ここでも小さな声楽アンサンブルで歌われます。ただきれいにコラールを歌うのではなく、一つひとつの言葉に感情がこもっている。美しく、静かな祈りそのものです。

今回の復元では、ここまでが23日夜の埋葬にあたります。まさに「お通夜」のような、私的で密やかな悲しみに満ちています。

ここから第2部、本葬部分ですね。ここになると、音楽の規模が一気に大きくなります。

8曲目「子らよ、嘆け、その嘆きを全世界へ告げよ」は、《哀悼頌歌》BWV 198の冒頭合唱《侯妃よ、なお一条の光を》の音楽が使われます。2本のフルート、オーボエ、弦楽合奏、オルガンの通奏低音、そして合唱。鋭い付点リズムには王侯の葬送にふさわしい威厳があり、合唱にもそれまでにはなかった激しさがあります。劇的です。第1部の個人的な悲しみが、ここでケーテン全体の公的な哀悼へと変わります。

9曲目「おお国よ、打ちひしがれた国よ」は、ケリーの作曲によるアルトのレチタティーヴォ。ダブルリード系の暗い響き、ヴィオラ・ダ・ガンバ、オルガンが悲しみを深めます。最後は途切れるように終わり、そのまま10曲目へ。

10曲目「悲痛と嘆き」は、《マタイ受難曲》の《悔いと後悔》。2本のフルートと通奏低音の上をアルトが歌います。こうしてよく知った《マタイ》の曲が次々に現れるのは、この作品を聴く大きな面白さです。未知の失われたバッハを聴いているはずなのに、「ああ、この曲だ」と親しみが湧く。そして同じ音楽が別の歌詞を得ることで、少し違った表情を見せます。

11曲目「残酷な稲妻が」は、テノールによる劇的なレチタティーヴォ。稲妻に打たれて鳥たちが森へ散っていくように、臣下たちがどれほど打ちのめされているかを歌います。これもケリーはうまい。

続く12曲目「嘆け、忠実なる国よ」は《マタイ受難曲》の《血を流せ、愛する心よ》。弦楽合奏にフルートが重なり、ため息に満ちたフレーズが続きます。この「ため息」の音型が、「忠実なる国よ、嘆け」という歌詞によく合っています。

13曲目はアルトの短いレチタティーヴォ。そして14曲目「戻ってきてください、尊き侯の魂よ」は再び《哀悼頌歌》BWV 198から、《されど王妃よ、あなたは死なない》のパロディ。小編成の合唱ながら、ここには公的な追悼の強さがあります。しかし声の一人ひとりが聞き取れるため、悲しみはあくまで人間の近いところに残っています。

第3部に入ると、雰囲気はさらに厳粛になります。

冒頭の「われらには神がおられる」はケリーの新作。少し古いスタイルを思わせる、厳格な対位法的フーガですが、なかなか見事な対位法。

「われらには助ける神がおられ、死から救う主がおられる」

という聖書の言葉。ここまでの「レオポルトが死んで悲しい」という個人的な嘆きから離れ、死そのものを信仰によってどう受け止めるかという世界に入ります。

2曲目「悲しみと恐怖に満ちた光景よ」もケリーの新作レチタティーヴォ。フラウト・トラヴェルソが規則正しく刻む上をアルトが訴えるように歌います。

「Die Stunde schlägt, das End’ ist nah」
「時は打ち鳴らされ、最期が近い」

とあります。刻みは、時の経過、あるいは迫りくる死の時間を描いているように聞こえます。言葉を音によって直接描く、いかにもバロック的な修辞法です。

3曲目「私をお守りください、神よ」は、《マタイ受難曲》の名曲《憐れんでください、わが神よ》。バロック・ヴァイオリンのソロが悲しげに歌い、アルトが感情を込めて歌います。ただしここでの歌詞は、レオポルトを悼むというより、

「私を守ってください、神よ。まだ人生の半ばにある私を」

という、自分自身の死への恐れです。葬儀で死を目の前にした人間が、「次は自分かもしれない。まだ死にたくない」と神に訴える場面とも聞こえます。

4曲目「しかし弱い人間は」はソプラノのレチタティーヴォ。前半は力強く、通奏低音もかなり劇的です。

「Wer aber stets wie unsre Fürstenseele」
「しかし、わが侯の魂のように」

から表情が変わります。

「地上の虚しさに執着せず、生きている時から天を目指した者は、喜びをもってこの世を去る」という方向へ音楽が向かい、少し喜びすら感じられるようになります。

その答えが5曲目「喜びのうちに、この世を去ろう」。

ここは《マタイ受難曲》の《愛ゆえに、わが救い主は死のうとされる》が使われます。トラヴェルソのソロが美しく、ソプラノの歌が入ると、《マタイ》と同じように途中で音楽がいったん止まるような瞬間があります。

「喜びをもってこの世を去ろう。
死は私にとって慰めとして現れる」

というもの。

第3部では、死を悲劇としてだけではなく、信仰によって肯定的に捉えていることがはっきり分かります。

6曲目「されば幸いなるかな、あなたよ」はバスの大きなレチタティーヴォ。そして7曲目では再び「われらには神がおられる」の古風で厳格なフーガが戻ります。この合唱も今回のケリーの創作です。

つまり第3部は、

死が怖い。
神よ、私を守ってください。
しかし信仰する者にとって死は恐れるものではない。
喜びをもってこの世を去ることができる。
そして神は死から人を救う。

という、かなり明確な神学的ドラマになっています。

第4部は再び音楽が静かになります。

8曲目「あなたの天使を私とともに行かせてください」はホモフォニックなコラール。リュートのアルペジオが優雅に響き、静かで敬虔です。

9曲目「いまはその安らぎのうちに眠りたまえ」は、《マタイ受難曲》の《わが心よ、清くなれ》。歌うのはJonathan Sellsのバス。ここでもリュートの響きが通奏低音の中からよく聞こえます。

「いまは安らぎの中に眠りたまえ」

という歌詞と、バスの包容力のある歌がよく合います。悲しみというより、「もう安心して眠ってよい」と語りかけているようです。

10曲目「そして、悲しみに沈む侯家よ」はケリーによるレチタティーヴォ。最初はテノールが悲しみを歌い、それをソプラノが引き継ぎます。そして歌詞が、

「夜は終わった」
「明るい一日が始まる」
「春のように太陽が輝く」

と変化するにつれて、音楽も明るくなっていきます。ソプラノのZoë Brookshawは澄んだ美しい声です。

11曲目「苦しみに満ちた悲嘆を鎮めなさい」も《マタイ受難曲》から。《私はあなたに心を捧げます》の音楽です。2本のオーボエ・ダモーレの柔らかなダブルリードの響きが印象的。短調なのですが、どこか喜びに満ちています。

「悲嘆を鎮めなさい。
良き時がやって来る」

という歌詞ですから、悲しみの中にすでに慰めが生まれているのでしょう。ダ・カーポ後には少し装飾も加えられ、同じ音楽が少し解放されたように聞こえます。

12曲目「いま私たちは別れます」は、弦合奏伴奏によるレチタティーヴォですが、最初は《マタイ》のどこかのレチタティーヴォかと思うほどよくできています。しかし、これもケリーによる新作です。

「いま私たちはあなたと別れる。
しかしあなたは私たちの心から去らない」

という静かな告別。

雰囲気は《マタイ受難曲》によく似ていますが、静けさと安堵に満ちています。最後を低音の長い音で支えて終えるあたりも、いかにもバッハ的です。

そして最後の13曲目「私たちの目は、あなたの亡骸を見つめる」。これは《マタイ受難曲》の終曲《われら涙流してひざまずき》です。

しかし《マタイ》で聴くほど重くありません。少し軽い足取りで進み、巨大な受難曲を閉じるというより、一人の人間を静かに墓へ送り出す音楽として聞こえます。最後もあまり仰々しく演奏しません。それでも、あの独特の不協和から最後に解決する和声を聴くと、「ああ、この曲だ」と思います。

ということで、よく知った《マタイ受難曲》や《哀悼頌歌》の音楽が次々と現れ、それがレオポルトを悼む別の言葉を得ることで、これまでとは違った意味を持って聞こえてくる。そして、その間をチャド・ケリーの新作レチタティーヴォやフーガがつなぎ、驚くほど自然な一つの作品として成立させています。

第1部の私的で密やかな悲しみから、第2部の公的で劇的な葬送、第3部の死と救済をめぐる厳粛な思索、そして第4部の慰めと安息へという流れですね。

録音が実にいい。Linnらしく自然でクリア。それぞれの楽器や声がよく見えるのに、決して人工的に分離された感じはなく、教会の残響も程よい。バロック・オーボエの太い音、リュートの繊細な響き、ファゴットやオルガンの低音、そして小さな声楽アンサンブルまで、とても自然に聴き取ることができます。さすがLinn、と思わせる素晴らしい録音です。

ジャケットの絵は泣いている女性。このアルバムに相応しい絵画ですが、使われているのは、15世紀フランドル絵画の巨匠ロヒール・ファン・デル・ウェイデンによる《十字架降下》の一部だそう。全体の左側にいて涙を流している女性ですね。

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン《十字架降下》(1435年頃、プラド美術館蔵)。左側で涙を拭うマリア・クロパの部分が、アルバム・ジャケットに使われている。画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

この白い頭巾をまとい、布を目に当てて涙を流している女性は、聖母ではなくマリア・クロパとされる人。声を上げるでもなく一人静かに涙を拭う女性だけを大きく切り取ったこのジャケットは実に印象的ですね。今回の演奏もまた、大きな悲劇を誇張するのではなく、小さな声楽アンサンブルやリュート、木管の響きによって、人間のごく近いところにある悲しみを描いています。音楽によく合った絵です。

単なる「失われたバッハの復元」という以上に、1729年3月23日の夜から翌24日へと続いた葬送の時間そのものを、現代にもう一度立ち上げようとしたアルバムでありました。

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ブルックナーと時空の旅 デイヴィス/MDR交響楽団、第0番から第3番へ

ここ何日かデニス・ラッセル・デイヴィス指揮、MDR交響楽団によるブルックナーの交響曲シリーズを、まとめて聴いています。

GENUIN classicsから2026年5月よりデジタル配信で順次発売されているもので、現在までに、

アントン・ブルックナー(1824–1896)
交響曲 ヘ短調 WAB 99「習作交響曲」
交響曲 ニ短調 WAB 100「第0番」
交響曲第1番 ハ短調 WAB 101「リンツ稿」
交響曲第2番 ハ短調 WAB 102
交響曲第3番 ニ短調 WAB 103

が発売されています。発売日は《習作交響曲》が5月8日、《第0番》が6月5日、第1番が7月3日、第2番が8月7日、そして第3番が9月4日。第3番の発売日は、ちょうどブルックナーの誕生日でもありました。GENUINは今後も月ごとにシリーズを続けていく予定とのこと。

《習作交響曲》については5月に一度このブログで取り上げていますが、うっかりその後を見逃していました。

というのもこのアルバム、どうもApple Musicからは冷遇されていて、ニュー・リリースに出てこないのですね。なぜかしら、とてもいい演奏なのに。

この録音のもとになったのは、デイヴィスがMDR交響楽団の首席指揮者となった2020年から、ブルックナー生誕200年の2024年まで続けたプロジェクトです。ヘ短調《習作交響曲》とニ短調《第0番》を含む11曲の交響曲を、それぞれ可能な限り最初の姿、すなわち「original versions」で演奏していくというもの。2024年、ブルックナーの生誕200年にゲヴァントハウスで完結した演奏と放送の記録が、今回GENUINから順次発売されています。

ブックレットでデイヴィス自身が語っているように、彼が興味を持っているのは、後世もっとも広く演奏されるようになった完成形だけではなく、ブルックナーが最初にその交響曲を形にした時、そこには何があったのかということ。後に整理され、削られ、時には滑らかにされたものが、最初にはどのような姿をしていたのか。デイヴィスはそこに、後年の完成されたブルックナーとはまた違う、冒険的で、ときに実験的ですらある作曲家の姿を見ていきます。私も今回、このシリーズを聴きながら、版の違いを一つ一つ探していくというよりも、その最初に一度決着したブルックナーの音楽に、そのまま身を任せてみることにしました。

第1番、第0番、第2番、そして第3番と、作曲された順に聴いてみました。続けて聴いていると、これが実にいい。宇野功芳先生がブルックナーについて「逍遥」という言葉を使っていたことを思い出します。たしかにブルックナーは逍遥する音楽。どこかへ急いで行くのではなく、巨大な音楽の中を歩き続ける。しかし今回何曲も続けて聴いているうちに、ブルックナーは同時に一種の時空の「体験」なのだとも思うようになりました。音楽を外側から眺めているというより、その大きな時間の中へ自分自身が入り込んでしまう。音楽の流れに身を任せているうちに、こちらの時間感覚まで少しずつ変わっていきます。時の感覚が麻痺してくるんです。今、いったい私はどこにいるんだろう?っていうような・・・いわば時空を旅しているような感覚です。

初稿と後の稿で何小節違う、ここが削られた、ここでは楽器が違う。もちろんそうしたことを知るのも面白いのですが、そればかりを追っていると、この音楽の大きな流れを見失ってしまうようにも思います。まずはブルックナーが最初に書き上げた、その荒削りな姿を丸ごと味わってみる。すると時折、「こんなところがあったのか」と驚く。そして結局は、やはりブルックナーは美しいと思うのです。

そして第1番、第0番、第2番、第3番と聴き進めたあとで、以前一度聴いたヘ短調の《習作交響曲》にも改めて戻ってみました。1863年に書かれた、ブルックナーが本格的な交響曲作家として歩み始める以前の作品です。第1番、第0番、第2番、第3番まで聴いた耳で改めてこの曲へ戻ってみると、まだ後年のブルックナーとはかなり違うところがある一方で、「ああ、もうここにいるな」と思わせる瞬間もあります。もちろん、第3番あたりの巨大な建築物のような音楽から振り返ると、まだ規模も構成もずっと素朴です。旋律や和声にも、19世紀前半の交響曲の語法を感じさせるところがあります。しかし、ときどきオーケストラの響きが大きな塊となって立ち上がったり、総奏のあとにふっと空間が開いたりするところには、やはり後のブルックナーへと続くものを感じます。

この曲だけを単独で聴いた時よりも、その後の第1番、第0番、第2番、第3番を知ったあとで戻ってくる方が、「ブルックナーになる前のブルックナー」がよく見えてくるのも面白いところ。まだ自分自身の交響曲の言葉を完全には手にしていない。しかし、これからあの巨大な時間と空間を作り出していく人が、すでにところどころで顔を覗かせています。そして《習作交響曲》から第1番、第0番、第2番、第3番へと聴き進めていくと、次第に「ブルックナーらしさ」が増していくことも、とても面白く感じられます。

第1番には、すでに後のブルックナーへとつながる三主題による構成や巨大なクレッシェンドがありますが、まだどこか若々しい。そして、その次に書かれたのが、現在「第0番」と呼ばれているニ短調交響曲です。「第0番」という名前から、第1番以前の作品のように思ってしまいますが、実際には第1番の後、1869年に書かれた作品です。ここへ来ると、後のブルックナーに特徴的な、巨大な音響のブロックを並べ、それを休止によって区切っていく感覚がぐっと濃くなってきます。

第2番では、それがさらに明確になります。1872年の初稿ではスケルツォが第2楽章、緩徐楽章が第3楽章に置かれ、後の版よりも多くの総休止が残されています。「休止交響曲」とやや揶揄気味に呼ばれたというのもよく分かります。でもその休止は単に音楽を中断しているのではなく、ブルックナー独特の巨大な時間と空間を作り出しています。ブックレットには、ブルックナーが「何か意味のあることを語る前には、まず息を吸わなければならない」と説明したとあります。いかにも彼らしい素朴な言葉ですが、今私も含めてみんな語りすぎですよね、ちょっと息を吸わなければ・・・。

そして第3番になると、もはや完全にブルックナーの世界です。今回の第3番は1873年の原初的な姿を基本とするもの。初期の第3番には《トリスタンとイゾルデ》《ワルキューレ》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》《タンホイザー》など、ワーグナーを思わせる部分が数多く残されてはいますが、それを聴いていても単にワーグナーの模倣をしているというのではなく、ワーグナーが音楽を途切れることなく流していく「無限旋律」の世界を作ったのに対して、ブルックナーは巨大な音響を一つの塊として置き、その間に静寂を置くという感じ。そしてオルガニストだったブルックナーらしい、オルガンのストップを切り替えるような音響感覚です。第0番あたりで姿を現したその感覚が、第3番では巨大な建築物になっています。

それから今回、第1番のノヴァーク版のスコアを開きながら聴いていて、ひとつ面白いことに気がつきました。どうも細かいところが合わないのです。最初は演奏上の変更かと思ったのですが、調べてみると、ここにはブルックナーの版問題ならではの事情がありました。私が見ていたのは、レオポルト・ノヴァークが1953年に校訂した、いわゆる「リンツ稿1866」。ところがブルックナーは、第1番のリンツ稿にも後年繰り返し手を入れていました。従来「リンツ稿」として広く用いられてきたハース版やノヴァーク版には、1868年のリンツ初演後にブルックナーが加えた修正も含まれています。

新しいブルックナー全集では、トーマス・レーダーが1868年の初演で実際に使用されたオーケストラのパート譜まで調査し、初演時に鳴った第1番を復元しています。ブルックナー全集の出版社であるウィーン音楽学出版社(MWV)は、このレーダー版について、「リンツ稿が1868年の初演時の姿で初めて提示された」と説明しています。今回のデイヴィス盤で用いられているのも、このレーダー校訂による1868年リンツ初演稿とのことです。

つまり同じ「リンツ稿」といっても、一つではないのですねぇ。本当にブルックナーって・・・版のことをこだわっていたら訳がわからなくなります。ノヴァーク版のスコアを見ながら今回の演奏を聴いて、細かな音や小節が違って聞こえたのは当然だったわけです。まぁこういうことも、ブルックナーの初稿を聴いていく面白さではありますね。

しかし今回、もっと心を惹かれたのは、そうした版の違いそのものよりも演奏です。最近は、ピリオド楽器やHIPの考え方を取り入れたマーラーやブルックナーを続けて聴いてきました。第3番についても、つい先日、パブロ・エラス=カサド指揮、アニマ・エテルナ・ブリュッヘによる1873年稿を聴いたばかりです。こちらはガット弦、当時の木管・金管などを用い、歴史的奏法や楽器の違いそのものが音楽の表情として前面に出てくる演奏でした。

あちらがHIPの考え方を前面に出した演奏だったのに対して、デイヴィスとMDR交響楽団は、実にオーソドックスです。こちらは現代のオーケストラ。だいぶ響きが違いますが、やっぱりモダン・オケの音もいいですね。聴き慣れたブルックナーの響きに戻ってきたような感覚があります。そして何か新しいブルックナー像をことさらに主張しようとはしません。金管も必要以上に鳴らしません。大きなクライマックスでも咆哮させるのではなく、柔らかく、オーケストラ全体の響きの中に収まっています。テンポも瞬間的な効果を求めるというより、音楽全体を大きなスケールで捉えています。

第3番の第2楽章など、実にゆったりとしたテンポです。しかし重くも、停滞もしません。そして大きな包容力があります。音が次の音を急かさず、音楽そのものが大きく呼吸している。聴いているこちらも、その呼吸の中へ取り込まれてしまいます。いつまでもこの音楽の中に浸っていたい。そんな気持ちになります。MDR交響楽団の響きには派手さはありません。しかしオーケストラ全体がとても落ち着いていて、バランスがいい。弦も木管も金管も、どこか一つが突出するのではなく、一つの大きな響きとしてこちらを包み込んできます。デイヴィス自身、長年ブルックナー管弦楽団リンツを率いてブルックナーを演奏してきた指揮者です。このオーケストラも含め、作品に対する強い共感が感じられます。

録音もいいですね。少しオフ気味にオーケストラ全体を捉えていて、近接マイクで楽器を目の前へ飛び出させるような録音ではありません。それでも木管のソロなどはよく捉えられています。そして大編成の録音では、ともすると量感だけが膨らんでぼんやりしてしまうコントラバスにも、きちんと芯があります。低弦がオーケストラの床をしっかり支えているという感じ。全体としては柔らかく包み込むようなのに、必要なところにはきちんと焦点が合っている録音です。ブルックナーをじっくり聴くには、とても心地いい音です。

なお、一点だけ気になることがありました。第3番の第3楽章、3分45秒前後で、音楽が一瞬、1〜2秒ほど先へ飛ぶように聞こえます。音が途切れて無音になるのではなく、短い部分が抜け落ちて、その先へ瞬間的に移動してしまう感じです。最初はHQPlayerやQobuzの問題かと思いましたが、何度再生してもまったく同じ箇所で起こり、Apple Musicでも同じ位置でまったく同じ音飛びを確認しました。Apple MusicとQobuzの双方で同じ箇所に同じ音飛びがあるため、少なくとも私の再生環境や一方のサービスだけの問題ではなさそうです。配信用に用意された共通ファイルに問題がある可能性を考え、GENUINにはこの件を連絡しています。せっかくの素晴らしい演奏なので、修正されることを期待したいところです。

そして9月4日はブルックナーの誕生日でした。偶然とはいえ、その日から第1番、第0番、第2番とブルックナーに浸り、その続きを第3番まで聴くことになりました。さすがに何曲も続けて聴くのは時間がかかりますが、実に心地良い時間でした。これから毎月、第4番以後がリリースされるようですので、新しい録音が出るたびに少しずつ聴き進め、ときにはヘ短調《習作交響曲》へ戻り、また第1番から歩き直してみます。

版の違いを確認することも面白いけれど、それ以上に、ブルックナーが最初に作り上げた音楽の中を逍遥し、その巨大な時間を体験する。それがこのシリーズを聴く何よりの楽しみになりそうです。デニス・ラッセル・デイヴィスとMDR交響楽団によるこのシリーズは、これから時間をかけてゆっくり付き合っていきたいアルバム群でありました。

今回聴いたデニス・ラッセル・デイヴィス/MDR交響楽団のブルックナー・シリーズ

ヘ短調《習作交響曲》

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交響曲第1番 ハ短調

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ニ短調《第0番》

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交響曲第2番 ハ短調

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交響曲第3番 ニ短調

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GENUIN classics デニス・ラッセル・デイヴィス/ブルックナー・シリーズ

私の作曲家別記事目録

ハイドン時代の名手メストリーノ ニキタソヴァが蘇らせる18世紀のヴァイオリン奏法

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今晩は、2026年8月28日にRaméeからリリースされた、プラメナ・ニキタソヴァのヴァイオリン、レ・ゼレマンによる《ニコロ・メストリーノ:ヴァイオリン協奏曲と室内楽》を聴きます。作品はいずれも世界初録音とのこと。

収録作品は以下の通り。

ニコロ・メストリーノ(1748–1789)

ヴァイオリン協奏曲第6番 ホ長調
1.Maestoso
2.Romance
3.Rondo Allegro

ヴァイオリンとチェロのためのソナタ ニ長調
4.Allegretto
5.Romance Andantino
6.Rondo

ヴァイオリン協奏曲第9番 変ホ長調
7.Allegro
8.Romance Adagio
9.Rondo

無伴奏ヴァイオリンのための変奏曲 イ長調(デジタル配信版のみ収録)
10.Thème varié. Moderato
11.Variation I
12.Variation II
13.Variation III
14.Variation IV
15.Variation V
16.Variation VI

プラメナ・ニキタソヴァ(ヴァイオリン、音楽構成)

レ・ゼレマン(Les Élémens)
カトリーヌ・プラットナー(ヴァイオリン)
ヨハネス・フリッシュ(ヴァイオリン)
リヴ・ヘイム(ヴィオラ)
クリストフ・コワン(チェロ)
ヤン・クリゴフスキー(ヴィオローネ)
ジャン=クリストフ・ディジュー(フォルテピアノ)
ケルスティン・クランプ(オーボエ)
レイチェル・ヘイマンズ(オーボエ)
ジュール・レジ(ホルン)
ジェラール・セラーノ(ホルン)

メストリーノ、また知らない作曲家が出てきました。クラシックって古いようでいながら、知られざる作曲家って際限なくいるんですね。その出会いもまた楽しい。

ブックレットによるとニコロ・メストリーノは1748年にミラノで生まれたヴァイオリニストで、ピエトロ・ナルディーニに学んだと伝えられています。ヴェネツィアでは若きコントラバスの名手ドメニコ・ドラゴネッティとも親交を結び、その後1780年にはハイドンによってアイゼンシュタットのエステルハージ侯爵宮廷楽団のコンサートマスターに任命されました。

ちょうど翌1781年には、ハイドンが6曲からなる弦楽四重奏曲作品33、いわゆる「ロシア四重奏曲集」を書いています。ブックレットでは、メストリーノがハイドンのオペラや、この作品33の演奏に関わった可能性にも触れています。ウィーン古典派がまさに形づくられていく現場にいたヴァイオリニストだったのですね。

その後はブラチスラヴァを経てパリへ移り、ヴィオッティとも交流。1789年にはテアトル・ド・ムッシュのオーケストラのリーダーとなりますが、バスティーユ襲撃の直後、41歳の若さで亡くなりました。

残された作品には十数曲のヴァイオリン協奏曲をはじめ、カプリス、二重奏曲、ソナタなどがあり、このアルバムはその中から協奏曲2曲、ソナタ、無伴奏変奏曲を収録しています。

独奏を務めるプラメナ・ニキタソヴァは1975年、ブルガリアのヴァルナ生まれのヴァイオリニスト。5歳でヴァイオリンを始め、16歳でスイスへ渡り、ジュネーヴ音楽院とウィーン音楽大学で本格的な現代ヴァイオリンの教育を受けました。1999年にはジュネーヴ音楽院でソリスト・ディプロマを最高位で取得しています。モダンのヴァイオリニストだったのですね。ところがその後、歴史的ヴァイオリン奏法の先駆者ヤープ・シュレーダーとの出会いをきっかけに古楽へ関心を深め、バーゼルのスコラ・カントルムでキアラ・バンキーニに学び古楽へと向かいます。

彼女の特徴は、単に古楽器を使うことではなく、17世紀から19世紀に残された教則本や理論書を読み込み、その時代の奏法を実際の演奏に反映させていること。作品によって楽器の構え方や弓の持ち方まで変え、装飾、アーティキュレーション、ヴィブラート、ポルタメントなども史料に基づいて再検討しています。ヴェストホフやビーバーなど、ヴァイオリン奏法の歴史そのものが見えてくる作品の録音にも力を入れていて、研究者的な探究心と高い演奏技術を併せ持つヴァイオリニストです。現在はミュンヘン音楽演劇大学でバロック・ヴァイオリンと室内楽を教えています。

今回使用しているのは、ここでチェロを演奏しているクリストフ・コワンから貸与された、1783年にオルレアンでニコラ・リュポによって製作されたヴァイオリンです。

合奏のレ・ゼレマン(Les Élémens)は、プラメナ・ニキタソヴァが創設した歴史的演奏のためのアンサンブルです。バロックだけでなく古典派、ロマン派までを対象として、作品が書かれた時代の楽器や奏法を史料から検討して演奏することを特徴としています。固定された大編成の楽団というより、作品に応じて編成を変えるグループですね。

そして今回のメンバーで目を引くのが、チェロのクリストフ・コワンです。ハルノンクールやホグウッド、サヴァールらと活動し、クァトゥオール・モザイクの創設メンバーでもある古楽界の大御所。ハイドンやモーツァルトをはじめとする古典派の歴史的演奏を長年牽引してきたチェリストが、この小さなアンサンブルの低音を支えているのも贅沢です。

まず《ヴァイオリン協奏曲第6番 ホ長調》。

編成はヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、ヴィオローネ、フォルテピアノ、オーボエ2、ホルン2という小規模なアンサンブルです。

第1楽章は、とても優雅な前奏で始まり、もうこの時点ですぐに好きになります。そこに入ってくるヴァイオリンはノンヴィブラートを基本としながらも決して硬質ではなく、甘く美しい音色。のびのびとフレーズを歌わせていきます。

ものすごく技巧を前面に押し出した音楽というわけではなく、古典派らしい端正な美しさの中に歌謡性が備わった曲です。

終盤にはカデンツァが入り、重音を多用しながら程よく技巧を盛り込んだ簡潔なもの。演奏者自身によるものなのかはブックレットには特に記載されていませんが、曲の雰囲気を壊さず、ちょうどよい長さです。

第2楽章は短調で物悲しいメロディから始まります。しかし、この主題はすぐに長調へ移り、柔らかな表情で進んでいきます。再び短調に戻るとヴァイオリンは旋律に装飾を加え、最後には短いカデンツァ。そこにフォルテピアノがポロンと入るのが、なんとも素敵です。

このあたりでは、まだ後の第9番で聴かれるようなポルタメントはそれほど前面には出てきません。

第3楽章では明るさが戻ります。冒頭から独奏ヴァイオリンが入り、シンプルで楽しげなロンド主題。それに続いてヴァイオリンが技巧的なソロを繰り広げます。かなり高い音域を多用し、重音もたくさん出てきます。途中には短調の主題も挟まり、音楽に陰影をつけています。

かなり難しいことをやっているはずなのですが、ニキタソヴァはそれを軽々と弾いてしまう。技巧をこれ見よがしに誇示するようなところはなく、最後まで抑制の取れた美しさが保たれています。

続く《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ ニ長調》は、一転してとても親密で楽しげな音楽です。

基本的にはチェロの刻みやシンプルな低音の上で、ヴァイオリンが高音域を中心に技巧的に動いていきます。二つの楽器が対等に激しく渡り合うというよりも、チェロが土台を作り、その上をヴァイオリンが自由に動き回るような書法です。

第2楽章は穏やかでゆったりとした音楽。途中には短いカデンツァもあり、技巧を誇示するというより、静かに旋律を味わわせます。

第3楽章は明るくシンプルなロンド。しかしよく聴くと、時折かなり難しそうなパッセージや重音が入り、実際に弾くとなると相当に大変そうです。

それでもニキタソヴァは軽々と弾いてしまうので、聴いている側にはほとんど難しさを感じさせません。かなり高い音域まで使われていますが、イントネーションも実に正確。このヴァイオリニスト、とても上手いです。

続く《ヴァイオリン協奏曲第9番 変ホ長調》では、さらにメストリーノ独自のヴァイオリン奏法が前面に出てきます。

第1楽章は第6番に比べると重音が多めに使われています。基本的にはあまり展開はせず、主題を装飾していくという感じ。演奏時間もかなり長く、結構大作ですね。

そしてこのアルバムのなかでもっとも興味深いのが、第2楽章《Romance Adagio》です。

ここでは、近年の古楽演奏で時折耳にするようになったポルタメントがかなりはっきりと使われます。しかし今回の場合、それは単に演奏者の趣味で加えたものではありません。

18世紀末のヴァイオリニスト、ミシェル・ウォルデマールのヴァイオリン教本《Grande méthode ou Étude élémentaire pour le violon》には、なんとメストリーノ自身の演奏法が楽譜付きで記録されています。

Couler à la Mestrino メストリーノ風の滑奏の譜例
ミシェル・ウォルデマール《Grande méthode ou étude élémentaire pour le violon》p.43。「Couler à la Mestrino(メストリーノ風の滑奏)」の譜例。上段が原旋律(MOTIF)、下段が演奏効果(EFFET)。Bibliothèque nationale de France, département Musique, L-485. Public Domain.

その冒頭には、

「メストリーノ風のクーレ。ある音から別の音へ、エンハーモニックな音階、あるいは四分音を介して滑らせる。これらのクーレはすべて同じ指で行う」

という意味の説明があります。

さらに、

「ANDANTE AMOROSO。彼がパリの演奏会で演奏したもの。この楽章は通常のアンダンテより遅い」

とも記されています。

譜例では上段に「MOTIF」、下段に「EFFET」とあり、本来の旋律に対して、メストリーノが実際にはどのような効果を加えて演奏したかが具体的に記されています。

つまりこれは、ポジション移動の途中で偶然音が聞こえるというようなものではなくて、同じ指を弦に置いたまま音から音へ意図的に滑らせ、その途中の音程まで表情として聴かせる奏法です。

そしてニキタソヴァは、第9番第2楽章でまさにこの史料に沿ってポルタメントを使っています。

最近、古楽系の演奏でもポルタメントを積極的に使う例が増えてきたように感じています。かつての古楽演奏というと、ノンヴィブラートで音をまっすぐ出し、明晰なアーティキュレーションで演奏することが一つの特徴でした。しかし古い演奏史料をさらに細かく調べていくと、18世紀の演奏は私たちが考えていたほど直線的できれいに整ったものではなく、ポルタメントや即興的な装飾など、かなり自由な表現が行われていたことも分かってきています。

今回の場合はその中でも特に説得力があります。なにしろ「メストリーノ風に滑らせる」という奏法そのものが、本人を知る同時代人によって譜例として残されているのです。

ウォルデマールの《Grande méthode》は18世紀末から1800年頃に刊行された資料で、現在は複数の図書館によってデジタル公開されています。ここに掲載した画像はフランス国立図書館(BnF)所蔵本のデジタル画像で、Wikimedia Commonsを通じてパブリックドメインとして公開されているものです。

第6番では、ノンヴィブラートながら甘く美しい音で古典派らしい端正な音楽を聴かせていたニキタソヴァが、第9番のこの楽章になると一転してポルタメントをはっきりと前面に出す。この使い分けも非常に面白いところです。

そして、その表現が現代の演奏家の思いつきではなく、200年以上前の譜例と結びついていることを知ってから聴くと、響き方まで変わってきます。

ハイドンの宮廷楽団で演奏していた一人のヴァイオリニストが、実際にはどのような音でヴァイオリンを歌わせていたのか。その片鱗を21世紀の録音から聴くことができるという点で、この第9番第2楽章は、このアルバム最大の聴きどころと言ってもよいでしょう。

最後に収められた《無伴奏ヴァイオリンのための変奏曲 イ長調》はデジタル版のみの収録。主題と6つの変奏からなり、重音奏法や高いポジションを駆使した作品で、ブックレットでは後のパガニーニを先取りするような要素も指摘されていますが、聴いた限りではシンプルな主題に重音や高音のパッセージをちりばめつつ、極端な技巧性は感じられません。

バッハやパガニーニのような突き詰めた無伴奏ではなく、もう少し軽く楽しめる感じ。こういうのもいいですね。

ニコロ・メストリーノという作曲家を知ることができたことも収穫ですが、それ以上に18世紀のヴァイオリン演奏が実際にはどのようなものだったのかを、同時代の史料と現在の演奏を照らし合わせながら聴くことができたことが大きな収穫でした。

古典派の端正な美しさと歌謡性、そして「メストリーノ風」と名付けられた大胆なポルタメント。その両方を楽しむことのできる、実に興味深いアルバムでありました。

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