
第17巻については以下で取り上げました。
今回のテーマは「学校の先生」。面白いですね。
収録曲は以下の通り。
《学校の先生(Il maestro di scuola)》
フランチシェク・レッセル(c.1780–1838)
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第4楽章 フィナーレ:モルト・プレスト
演奏
引用されている記録だとハイドンは楽譜の上に無作為に音を書きつけて、そこに小節線を引いて、それを基本の音として、残りの音は自由に選んで音楽的アイディアを産んでいたとのこと。まるで「音楽のサイコロゲーム」みたいに。だからこそこれだけたくさんのシンフォニーを書けて、そのどれもが楽しくて遊び心に溢れているのですね。
今回のタイトルの元になっているのは、交響曲第55番のニックネーム「学校の先生」。一体どうやったらこんなネーミングになるのかわからないですが、面白いですよね。
さて、聴いてみます。
まずは録音、いつものように鮮烈。これはバックロードホーンで聴くとちょっと切れ味が鋭すぎてキツくて、ハーベスと300B真空管で聴くとちょうど良い心地良さになります。
モダンオーケストラですが、奏法はあまりヴィブラートをかけずストレートに迫る演奏はいつも通り。
交響曲第56番ハ長調。1774年に作曲されたとされ、エステルハージ宮廷のために書かれてオーボエ2、ファゴット、ホルン1、トランペット2、ティンパニと弦楽器という華やかな編成。ハイドンが得意としたハ長調の華やかさがよく現れています。
第2楽章アダージョは下属調になり、弱音器付きの弦楽器でしっとりと歌わせ、繰り返しはオーボエ2本で奏されます。そしてファゴットがのんびりとした長いソロを吹き、ちょっと楽譜にはないトリルを入れて遊んでいますね。オーボエもそれに続いて長い音のソロ。木管を活躍させます。オーボエは2本で動くのも特徴。提示の最後は弦楽器の細かい音で締めます。
第3楽章メヌエット。華やかにトランペットが入り重そうな和音なのに軽やかなリズムで演奏します。ダンス的というよりはもっとドラマチック。対照的にトリオは柔らかで、オーボエの柔らかな色彩が浮かび上がります。この対比の落差がとても大きい演奏。
フィナーレは異例の速さ プレスティッシもが指定され、作品全体で最も大胆な楽章。冒頭はメヌエットで出てきた細かい三連符が引き継がれて統一感がありますが疾走感あふれる主題。音楽をフレーズごとに止めるのがハイドンのユーモア。三連符を主体として明暗の切り替えが激しい構成です。
演奏は強奏がエネルギーの爆発させます。提示部の繰り返しの後のフェルマータには楽譜にないヴァイオリンの短いソロのパッセージを挟み込んで遊び心たっぷり。後半は今度は同じようにチェロのソロを挟んでいますね。さらに繰り返しではホルンが派手なトリルも入れたソロ。どれも楽譜にはなくて、こういうちょっとしたお遊びが突然出てくるのが実に愉快。それにしても細かい三連符の連続で弦楽器はよく弾くなぁ。相当にうまいオケですね。
演奏はここでは極端なダイナミックの変化よりも弦楽器の柔らかく軽やかさが特徴。旋律の流れるような自然さと極端なことをしない抑制された優雅な曲です。
ここでもバーゼル管の弦は優しい音で素早く三連符を軽やかに弾いていて、派手ではないけれど、ヴィルトゥオージ性を示していますね。
第2楽章のアンダンテ、ここはハイドンがまた遊んでいて、一つの旋律線を1stと2ndヴァイオリンで1小節ずつ交互に弾かせるということやっています。古典配置で右に2ndヴァイオリンが配置されているのですが、弦楽器パートの音色がよく統一されていて、まるで一つのパートで弾かれているようでいながら左右に分かれて代わるがわる聴こえてくるのが面白い。
第3楽章メヌエット。ここでは逆に1st2ndヴァイオリンがユニゾンで弦楽器のパートは3声で始まります。こういった細かいお遊びはハイドンならでは。トリオは全然メロディがないというユニークさ。でももしかしたらオーボエかなんかのパートがかけちゃってるんじゃないかなとも思ったりもしますが、ホルンのロングトーンと弦楽器の刻みだけというシンプルさで、これはこれでダ・カーポした時の効果が出ます。
第4楽章はプレスト。演奏はあまり極端な速さではなくて、気品のあるプレスト。下降音型が繰り返し登っていくところのアーティキュレーションもアントニーニは柔らかく弾かせていてホ長調の明るくソフトな雰囲気を崩さないようにしているように感じられました。
この曲は日本では「校長先生」として知られていますよね。ドイツ語の Schulmeister やイタリア語の Il maestro di scuola の本来の意味は「学校の先生」。 日本では慣習的に「校長先生」とも呼ばれてきましたが、原義としては「学校の先生」が正しいのではないかと思います。多分昔の翻訳がそのまま現在に残っているのではないかしら。このアルバムのタイトルはイタリア語で「Il maestro di scuola」ですから校長の意味は入っていません。まぁどっちでもいいとも言えますが・・・ブックレットにはこの名称になった由来が綴られていますが、ようはハイドン自身がつけたものではなくて、後でつけられてカタログにも残ったのでこの愛称がそのまま使われているというわけ。でもハイドンの交響曲ってやっぱりニックネームがついていた方が人気があるのは、人の心の綾ですねぇ。
1楽章アレグロ ディ モルト。変ホ長調の和音が歯切れよく奏され開始されるのは、一瞬、ほんの一瞬ですがベートーヴェンの英雄を思い出しました。全く違うのだけど、萌芽というか、この曲の調性をまず高らかに宣言して始まるとことですね。堅牢なリズムで堂々とした楽章。後半は今度はハ短調のドミナントの和音で展開部を宣言します。ここではかなりキツめで激しいアタックを使って劇性を高めていますね。
第2楽章はアダージョ・マ・センプリチェメンテ。この楽章がこの曲の愛称「学校の先生」の元になったと言われていますね。シンプルで素朴なメロディが繰り返される、それが優雅に装飾されます。まぁ言われればちょっと田舎の先生が訥々と生徒の前で噛み砕くように教えている、という風景が思い浮かばないこともない・・・かな。そこにはハイドンの優しいユーモアが溢れていて、ピアノとフォルテの突然の交錯、変奏の優雅さ、展開部の付点など楽しい語り口がいっぱい。微笑みたくなる楽章です。
第3楽章メヌエットはがっしりした感じですが、その中にハイドン的なお茶目さが顔を出します。トリオはチェロのソロにヴァイオリン群という面白い編成。ソロというよりは通奏低音的な音形を重ねていて、やはり素朴な感じはここにも校長先生が聞こえてきそう。
第4楽章はプレスト。校長先生というよりは、その生徒たちの活発な動きや悪戯を連想させます。主題に続いて、オーボエとホルンだけが残る部分では、ホルンがかなりテクニカルなことやっていて面白い。この後突然のフォルテッシモでびっくりさせたり、ハイドン先生、遊んでいます。最後はオーボエ、ホルンにちょっとだけソロを吹かせて終わらせてます。ユーモアたっぷり。
なぜこの曲がここに入るかというと、レッセルは数少ないハイドンの弟子で、ハイドンの交響曲第56番の楽譜を1805年に贈られていて、先生としての親密さが伺えますが、ようは「ハイドン先生」の教師としての成果の生徒の作品を置いたのですね。
この作品はかなり激しいシュトルム・ウント・ドランク的な作品で、アントニーニとバーゼル管の演奏もかなり激しい激動の演奏。ただハイドン的なユーモアは全くなくて、真面目な生徒が真剣に作った曲、という感じで悪くありません。ハイドン先生、いい生徒を育てましたね。
このシリーズはいつも名写真家の作品がブックレットに掲載されていますが、今回はデヴィッド・シーモア(愛称シム)の写真集。いわゆる戦争を中心とした報道カメラマンですが、身体的にも精神的にも傷ついた「ヨーロッパの子どもたち」シリーズが世界的に注目を集めた人。1956年にスエズで停戦協定調印の4日後、エジプト軍の機銃射撃で命を落としています。
表紙には動かなくなったスクーターを子供達が押している写真、これなどは田舎の先生がエンコしたバイクを生徒たちと一緒になって動かそうとしている微笑ましい作品で、このアルバムのタイトルに合っています。
このブックレットに掲載されているのは、悲惨さよりも貧しい中で懸命に明るく生きている人々の生活が生き生きと、時にはユーモアを持った暖かい目で撮られていて、本当にこのアルバムにふさわしい作品集。こういう試み、好きですね。
ということで、このアルバム、毎回とても素敵な音楽と写真で楽しませてくれます。次回も今から楽しみ。