クラシックとオーディオの日々

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ホリガー指揮バーゼル室内管による新しいシューマン《交響曲第2番》明晰な響きと球体的時間

今晩は、Prospero Classicalから配信されている、ハインツ・ホリガー指揮、バーゼル室内管弦楽団によるシューマン《交響曲第2番 ハ長調》作品61を聴きます。

今回の録音は交響曲第2番と第3番《ライン》を収録したアルバムとして2026年11月13日に発売される予定ですが、QobuzやYouTube Musicではそれぞれの交響曲が別のアルバムとして先行配信されています。

昨日聴いたシューマンのピアノ三重奏曲にどっぷり浸かったせいか、すっかり脳みその中がシューマン。またスコアを分析しながら聴いたら結構時間をとりました。そこでまず第2番だけを取り上げることにします。

収録曲は以下の通り。

ロベルト・シューマン(1810–1856)
交響曲第2番 ハ長調 作品61

01.第1楽章 Sostenuto assai – Allegro ma non troppo
02.第2楽章 Scherzo. Allegro vivace
03.第3楽章 Adagio espressivo
04.第4楽章 Allegro molto vivace

演奏:ハインツ・ホリガー指揮、バーゼル室内管弦楽団
録音:2025年10月30日〜11月2日、バーゼル、ドン・ボスコ
レーベル:Prospero Classical

ハインツ・ホリガー。私が高校生の頃からLPでモーツァルトのオーボエ四重奏曲とかニコレとの協奏曲とか聴いていたのですが、あれから50年近く経ってまだ新しいアルバムが出るのって、いったいどういうこと? どんなスーパーマンなんでしょう。時々こういう演奏家は人間ではないのでは? と思う時があります。今年で87歳。すごすぎる。

ホリガーはすでに2010年代、ケルンWDR交響楽団とシューマンの管弦楽作品全集を録音しています。これは名盤として有名ですね。しかし、まだ新たに録音し直そうという気力があるということに驚きます。

今回はバーゼル室内管弦楽団との新しい交響曲全集の企画で、弦楽器にはガット弦を使用し、ホルンにはナチュラルホルンと細管のヴァルヴホルンを組み合わせ、ティンパニも古典的な楽器を用いています。弦楽器の編成は第1ヴァイオリン8、第2ヴァイオリン8、ヴィオラ5、チェロ5、コントラバス3という、かなり小規模なものです。

今回のブックレットはなかなか読み応えがあります。まず、かのジャン・パウルの言葉から始まります。

そして、ホリガー自身がシューマンについて語った詳しいインタビューが掲載されています。私がまず惹かれたのは、レコーディングに対する姿勢です。

かつてホリガーは、オーボエ奏者として活動していたころから、レコードには何か決定的なものがあると考え、何度も修正を重ねることで、客観的で、ほとんど中立的ともいえる完璧さを追求していたとのこと。

しかし、300以上の録音を重ねるにつれて、次第に録音とはそれが行われた瞬間を再現するものにすぎないのだと強く意識するようになったそうです。録音とは、ひとつとして同じもののない、極めて個性的で主観的なもの。そしてシューマンの場合、すべての作品に特徴的な過去と現在との結びつきが、絶えず新たな解釈を求めているとのこと。

そして、そこで繰り返し語られているのが、シューマンの管弦楽法に対する従来の批判への反論です。シューマンのオーケストレーションは厚ぼったく、響きが不透明だと言われることがありますが、ホリガーは楽器の使い方や弓の動かし方を工夫することで、実に透明な音響が生まれると主張します。

また、シューマンの音楽には勝利を誇示するような響きよりも、両義性や曖昧さ、絶えず移り変わる音色が重要なのだとも語っています。なかなか興味深い。

早速聴いてみます。

第1楽章の序奏。冒頭の金管楽器によるファンファーレは、少し仄暗く、陰影に富んだ響きです。その下を弦楽器が細かな音型で支えていますが、こちらは意外なほど明るく、軽やかな音色です。金管楽器の長い音と、その下で絶えず動き続ける弦楽器。この2つの異なる性格の音楽が同時に進行していることが、実にはっきりと聴こえてきます。

ホリガーはブックレットの中で、冒頭の金管を遠くから呼びかける自然の響き、その下の弦楽器を厳格なポリフォニーにたとえています。つまり最初から、異なる時間の流れが重なり合っているというわけです。

ガット弦による弦楽器の響きは、必ずしも柔らかいだけではありません。音の立ち上がりが明瞭で、今回の演奏ではむしろ明るく、軽やかな印象を受けます。一方、金管楽器は少し暗い響きを保ち、この対比が実に面白い。序奏のテンポも重すぎず、音楽は自然に進んでいきます。

やがて序奏が盛り上がると、金管楽器はそれまでとは違う鋭い音を発します。スフォルツァンドも鋭く短く、音を必要以上に引きずりません。そして主部のAllegro ma non troppoに入ると、跳ねるような主題が現れ、音楽は一気に活発になります。

ここまで聴いて、とにかく感じるのがオーケストラの見通しの良さ。大きなオーケストラにはない風通しの良さがあり、音楽の中身が見えるような気がします。

展開部に入っても、弦楽器の細かな動きが透けるように聴こえてきます。木管楽器や金管楽器も明瞭ですが、小編成だからといって管楽器を突出させるのではなく、全体のバランスを抑え気味にしています。そのため、弦楽器の内声が埋もれることがありません。

ホルンには時折、ゲシュトップ奏法を思わせるような独特の音色も聴こえます。今回はナチュラルホルンと細管のヴァルヴホルンが組み合わされているとのことですが、こうした音色の違いが、響きに微妙な陰影を与えているのでしょう。

そして何より、対位法が面白い。シューマンはこの頃かなりバッハに凝っていて、対位法を研究していたとか。そのためか、複数の声部をかなり複雑に組み合わせています。今回の演奏では、それぞれの旋律が独立して動いている様子がよくわかります。こうして聴くと、シューマンの管弦楽法に対するホリガーの考え方にも納得できます。

コーダも、しなやかさと前進性が交わるような音楽です。細身で鋭いトランペットから主要なモットーがはっきりと聴こえ、最後に向かって音楽は加速するような勢いを増していきます。それでも響きは重くなりません。最後の和音もスッと音を抜くように終わります。力いっぱい鳴らして響きを残すのとは違う、実に軽やかな終結です。

第2楽章のスケルツォも、驚くほど軽い演奏です。

冒頭から続くヴァイオリンの細かな16分音符は、ひとつひとつの音の歯切れが良く、音楽が弾むように進んでいきます。低音も控えめで、チェロやコントラバスが響きを重くすることなく、音楽の運動を支えています。管楽器が加わっても重くならず、全体を通して実に活発です。

この楽章には2つのトリオがあり、それぞれの性格が異なりますが、どちらも明るい響きが印象的です。

ここで少し、シューマンがこの交響曲を書いた時期のことを考えてみたいと思います。

シューマンは1844年頃から心身の不調に苦しみ、1845年にも創作活動が思うように進まない時期がありました。交響曲第2番はそのような時期を経て、1845年末から翌1846年にかけて作曲されています。後年シューマン自身も、この作品には自分の苦しかった時期が反映されていると語っています。

しかし、このスケルツォを聴いていると、そうした暗さはあまり感じられません。もちろん和声には不安定な響きもあり、せわしない運動の中には落ち着かない感覚もあります。それでもホリガーは、音楽の活力や軽快さを前面に出しています。

そして、第2トリオには興味深い仕掛けがあります。

シューマンはここに、B-A-C-Hという音型を組み込んでいるのです。ドイツ音名によるB-A-C-H、変ロ・イ・ハ・ロという4つの音を仕込んでいる。これは単なる偶然の音の並びというだけではなく、シューマンがバッハの音楽に深く取り組んでいたことと結びつけて考えられています。

特に1845年、シューマンは対位法の研究に力を注ぎ、《B-A-C-Hの名による6つのフーガ》作品60なども作曲しています。この交響曲にも、その成果がさまざまな形で現れているのでしょう。

ただし、実際に第2トリオを聴くと、B-A-C-Hの音型は本当にさりげなく通り過ぎていきます。バッハの名前をことさらに強調するような音楽ではありません。むしろ面白いのは、その周囲にある対位法的な書法です。各声部が自然に絡み合い、次々と別の楽器へ受け渡されていく。そこにこそ、バッハへのオマージュを感じます。

ホリガーはブックレットで、このB-A-C-H音型を次の第3楽章への隠された予告ではないかと語っています。そこまで意識して聴くと、この軽快なスケルツォが、次の深いアダージョと結びついていることも見えてきます。

コーダでは運動性がさらに増し、あの交響曲冒頭のファンファーレも高らかに響きます。今回の金管楽器の明るく鋭い響きが、実に効果的です。最初から最後まで、活発で軽やかなスケルツォでした。

第3楽章のAdagio espressivoは、この交響曲の中でも特に美しい音楽です。

冒頭のハ短調の旋律を、第1・第2ヴァイオリンがユニゾンで歌い始めます。ホリガーはここでヴィブラートをほとんど使わず、旋律を非常に明晰に聴かせています。そのため、必要以上に耽美的な表現にはなりません。それでも旋律の美しさは十分に伝わってきます。

この長い旋律の下で動いているヴィオラなどの弦楽器のリズムも、今回の小編成だからこそよく聴こえます。上声部がゆっくりと歌い、その下では細かな音型が絶えず動いている。ここにも、シューマンの対位法的な発想が明確に現れています。

続いて登場するオーボエが実に美しい。今回はモダン・オーボエですが、柔らかさと明晰さを併せ持った音で歌います。また、その対旋律を奏でるファゴットも素晴らしい。ホルンにも独特の古典的な響きがあり、楽器ごとの音色の違いがはっきり感じられます。

練習番号Nの後、弦楽器が高い音域で第1主題を歌う部分は、特に印象に残りました。ここではヴィブラートも使われ、旋律は大きく広がっていきます。この高音の響きには、思わず恍惚とさせられるような美しさがあります。つまりホリガーは、全体を一律にノンヴィブラートで演奏しているのではなく、音楽の表情に応じて使い分けているようです。

そして続くフガートが、実に明晰です。

シューマンは複数の声部に主題を模倣させながら、ある声部にはクラリネットを重ね、別の声部にはファゴットを重ねるなど、音色を巧みに変化させています。管楽器は単に和音を厚くするために使われているのではなく、対位法的な声部のひとつを浮き上がらせるためにも使われているのです。

さらに、そのフガートの動きが続く中へ、第1主題がフルートとオーボエによって戻ってきます。この重なりが美しい。異なる性格の音楽が同時に存在しながら、ひとつの大きな流れを作っているのです。

これこそ、シューマンの管弦楽法の個性なのではないでしょうか。大きなオーケストラでもこうした声部を明瞭に演奏することはできますが、今回のような室内オーケストラでは、それぞれの旋律の動きがより直接的に感じられます。

この第3楽章には、もうひとつ非常に興味深い問題があります。バッハの《音楽の捧げもの》BWV1079に含まれるトリオ・ソナタとの関連です。

ホリガーもブックレットの中で、第3楽章の主題がバッハのトリオ・ソナタから着想を得ていると語っています。実は、この関係は古くから知られていて、1855年にはブラームスがクララ・シューマンに宛てた手紙の中で、このアダージョを高く評価し、《音楽の捧げもの》を思い起こさせると伝えています。

興味を持って実際に楽譜を比較してみましたが、両者の旋律が完全に同じ音で構成されているわけではありません。似た旋律の輪郭や、調性の陰影、対位法的な書法などに共通性が見られますが、どこまでを直接の引用と考えるかについては、なかなか微妙な問題です。

しかし、第2楽章の第2トリオにB-A-C-Hの音型を組み込んでいることといい、シューマンがバッハを強く意識していたことは確かなのでしょう。

もちろん、バッハの旋律をそのまま借りてきたというよりも、バッハの音楽の世界をシューマン自身のロマンティックな表現に取り込んだ、と考える方が自然に感じられます。

そして中間部のフガートでは、今度は対位法そのものが前面に出てきます。最初はロマン派の叙情的な歌として現れた音楽が、やがてバッハを思わせる対位法の世界へと移り、さらに両者が重なり合っていく。実に凝った構造です。

ホリガーはブックレットで、シューマンの音楽には過去と現在が同時に存在していると語り、それを「球体的時間」という考え方に結びつけています。バッハの時代の音楽とシューマン自身の時代の音楽が、ひとつの作品の中で重なり合う。今回の第3楽章を聴いていると、その考え方も理解できるような気がします。

楽章の終わりは、非常に静かです。しかし、大編成のオーケストラが作り出すような濃厚な神秘性というより、音の輪郭を残した、すっきりとした響きの寂しさがあります。この静けさも実に美しい。

そして第4楽章。

冒頭から元気のよいハ長調の音楽ですが、ホリガーは付点リズムを含む主題をあまり硬く演奏していません。古楽的な演奏では、こうした付点リズムを鋭く強調することもありますが、今回はむしろ柔らかさとしなやかさを感じます。音楽は力強く前進しながらも、決して軍隊的な響きにはなりません。

練習番号Pからの細かな音型も軽やかです。その下に別の主題的な素材が入り込み、複数の旋律が絡み合っていきます。

ここで興味深いのが、第3楽章の第1主題と、第4楽章に現れる大きな跳躍を伴う長いフレーズとの関係です。

第3楽章では深い憂愁を帯びて歌われていた旋律が、終楽章ではまったく異なる生命力を持って現れます。音程やリズムがそのまま繰り返されているわけではありませんが、実際に聴いていると、両者が深く結びついていることを感じます。

この関係については多くの研究者も指摘しています。私も楽譜を比較してみましたが、音符がそのまま一致するような単純な関係ではありません。しかし実際の音楽を聴いていると、旋律の大きな跳躍や長いフレーズの呼吸に、明らかなつながりを感じるのです。

これこそシューマンの主題の扱いの面白さでしょう。ある楽章で歌われた旋律が、別の楽章では新しい姿となって生き始める。同じ音楽が戻ってくるのではなく、かつて存在した音楽が、新しい生命を得て再び現れるのです。

ここにもホリガーの語る「球体的時間」を感じます。過去の音楽は過ぎ去ったものではなく、未来の音楽の中に生き続けている。第3楽章の主題が第4楽章で新しい姿を得ることは、この交響曲の循環的な構造を考えるうえで、非常に重要なのではないでしょうか。

さて、演奏に戻ると、第4楽章の中ほどでは、木管楽器による短調の主題が現れ、音楽の性格が大きく変わります。ここは第3楽章の世界を思い起こさせる部分でもあり、ホリガーはその陰影を明確に描き分けています。

やがて音楽はいったん静まり、全休止を経て、新しい音楽が始まります。

第280小節から、木管楽器が柔らかな主題を奏でます。それまでの活発な音楽とはまったく違う、静かで歌うような旋律です。しかし、ここから再び音楽はさまざまな葛藤を経て、大きく成長していきます。

そして、この後半に現れる主題には、ベートーヴェンの連作歌曲集《遥かなる恋人に寄せて》作品98の第6曲《Nimm sie hin denn, diese Lieder》との関連が指摘されています。

「それならば受け取っておくれ、この歌の数々を」という言葉で始まる歌曲です。

シューマンはすでにピアノの《幻想曲 ハ長調》作品17などで、このベートーヴェンの歌曲を思わせる旋律を用いています。クララとの関係を考えるうえでも重要な音楽です。

今回も楽譜を調べてみると、第280小節の主題がそのままベートーヴェンの旋律を引用しているわけではありません。長い展開を経た第394小節付近で、ベートーヴェンの歌曲との関連がより明確になるとされています。

このような主題の引用や暗示については、どこまで作曲者が意識的に行ったものなのか、簡単に結論を出すことはできません。しかし、シューマンにとって特別な意味を持っていた歌曲が、この交響曲の最後に現れるというのは興味深いですね。

ホリガーは、この主題をクララへの愛と結びつけて語っています。

今回の演奏では、このベートーヴェンに関連する旋律が実に柔らかく奏でられます。そして長い展開を経て、再びあの第1楽章冒頭のファンファーレも登場します。交響曲の最初に聴こえたモットーが、全4楽章を経て、新しい音楽の中に帰ってくるのです。

この終結部もホリガーは決して重くしません。大きな響きになっても、弦楽器にはしなやかさが残り、管楽器も透明な音色を保っています。

そしてティンパニが実にかっこいい。古典的なティンパニを使用しているとのことですが、皮の振動が直接伝わってくるような、独特の打撃音です。現代的なティンパニの豊かな低音とは違って、音の輪郭がはっきりしていて、リズムが生き生きと感じられます。

最後に向かって、音楽はますます大きな高揚を見せます。しかし、ここで感じられるのは、力によって苦悩を征服するような勝利の音楽ではありません。

むしろ、どこか柔らかな光のような希望が差してくる。そんな印象を受けました。

第3楽章の深い悲しみや、第4楽章の途中に現れる葛藤を経て、最後には穏やかな光に包まれるような感覚が残ります。そこにはシューマンの音楽の優しさが感じられるのです。

今回、久しぶりに交響曲の総譜を詳しく読みながら全4楽章を聴いてみましたが、改めてシューマンの作曲技法の面白さを感じました。

第1楽章冒頭の金管のモットーが別の楽章にも現れること、第2楽章の第2トリオにB-A-C-Hの音型が組み込まれていること、第3楽章にバッハ《音楽の捧げもの》との関連が見られること、さらに第3楽章と終楽章の主題のつながりや、ベートーヴェンの歌曲との関係など、実に多くの仕掛けがあります。

もっとも、これらをすべて明確な引用として扱うことには慎重でありたいと思います。主題の一部が似ていることと、実際に引用していることは同じではありません。楽譜を見て、さまざまな音型を比較してみると、むしろその違いの方が興味深く感じられます。

そして、こうした複雑な構造を、今回のホリガーの演奏は非常に自然に聴かせてくれます。それが、ホリガーの語る「球体的時間」という考え方にも結びついてくるように思います。

私には、それが時間の円環のようにも感じられます。

過去は未来に響き、未来は過去に呼応する。第3楽章で深い憂愁を帯びていた主題が、第4楽章では新しい生命を得て現れる。しかし、後から現れる音楽も、すでに前の楽章の中で予告されていたのかもしれません。

そして、その関係はひとつの作品の中だけにとどまりません。はるか昔のバッハに呼応する動機や、シューマンが深く尊敬し、愛していたベートーヴェンの旋律までもが、時を超えて現れます。

それらの古い音楽は、生まれた瞬間から、いつか未来の音楽の中で再び響く運命にあったのかもしれません。

ホリガーは、シューマンの音楽の中に、過去と現在と未来が同時に存在するような、不思議な時間のあり方を見出しています。それは、単に昔の旋律を引用するということではなく、過去に存在した音楽が、現在の音楽の中で新しい意味を持って生き始めるということなのでしょう。

この交響曲は、そんな時間の円環を描いているようにも思えてきます。

ブックレットの冒頭には、ジャン・パウルの言葉が掲げられています。

球体的時間

音符が語りかけるとき、それが私たちの過去を表しているのか、それとも未来を表しているのか、私たちにはわからない。私たちは遠い昔の日々、すでに過ぎ去った日々、そしてこれから訪れる日々を聴く。過去も未来も私たちから遠く離れたところにあり、私たちはその両方を思い出し、また憧れる必要があるからだ。

ジャン・パウル

87歳のホリガーが、これほど若々しく、明晰で、しなやかなシューマンを聴かせてくれただけでなく、音楽と時間の本質についても考えさせてくれる。実に哲学的で、奥深いアルバムでした。



今回の演奏はこちらから聴くことができます。

YouTube Music

Apple Music Classical

Qobuz


これまでに取り上げた作曲家別の記事はこちらです。