
今晩はアルファー・クラシックスから1月30日にリリースされた、ピアニストのクレア・フアンチによるアルバム 『Piano Heroines(ピアノ・ヒロインズ)』を聴きます。
収録曲は以下の通り。
ファニー・ヘンゼル: カプリッチョ ロ短調 H.349
《一年》H.385 より
2月:スケルツォ
5月:春の歌
6月:セレナード
9月:川のほとりで
エイミー・ビーチ:
フーガ風幻想曲 作品87
アレグロ・ヴィゴローソ
フーガ:アレグロ・モデラート
孤独な母の子守歌 作品108
4つのスケッチ 作品15
秋に 幻影 夢想 ほたる
クララ・シューマン(クララ・ヴィーク):
音楽の夕べ 作品6
夜想曲 4つの性格的小品 作品5
ボレロ風カプリース
幻想的情景 ― 亡霊たちのバレエ ピアノ協奏曲 イ短調 作品7 より
ロマンス 音楽の夕べ 作品6
ポロネーズ
フローレンス・プライス:
黒人幻想曲 第2番 ト短調
瞑想
春の乙女のワルツ
あなたの手は私の中に
コットン・ダンス
演奏
クレア・フアンチ(ピアノ)
トリスタン・コルヌ(チェロ)
クレア・フアンチはアメリカ出身で現在はドイツを拠点に活動するピアニスト。2018年のゲザ・アンダ国際ピアノ・コンクール優勝を機に国際的な評価を確立しました。バッハやベートーヴェン、シューベルトなどのアルバムの他、米国の作曲家作品もとりあげたアルバムをリリースしていますね。アルファーのシリーズ「次世代のモーツァルトのソリスト」シリーズにも出ています。まったく知らない方ですが、Apple Music Classicalでは今週の新譜として前のほうに出ていました。
さて、このアルバムは、ファニー・ヘンゼル、クララ・シューマン、エイミー・ビーチ、フローレンス・プライスという、19世紀から20世紀にかけて活躍した4人の女性作曲家のピアノ作品を集めた内容です。いずれもロマン派の語法を背景にしているのが共通点。そしてクレアはこの4人について、彼女自身がアメリカで生まれ、ドイツで活躍していることから、ドイツのファニーとクララとアメリカのビーチとプライスを選んだと述べています。それぞれに女性としての生き様と音楽に共感したのでしょう。
ファニー・ヘンゼルは、フェリックス・メンデルスゾーンの姉として知られますが、独自の作曲家として高い完成度を示した存在です。社会的制約のため公的な作曲活動は限られましたが、私的な場で数多くの作品を残しました。ロマン派の語法を基盤に、洗練された和声感と親密な抒情をあわせ持ち、ピアノ作品や歌曲ではとくに自在な発想が光ります。近年の再評価により、兄の影に隠れた存在ではなく、19世紀ドイツ音楽を豊かにした重要な作曲家として位置づけられています。
まずはカプリッチョ ロ短調 H.349。心をこめた美しい1音からそっとはじまり、即興的な身振りで始まるこの曲は、ロ短調の緊張感を保ちながら、次々と表情を変えて進みます。兄フェリックスを思わせる雰囲気はありますが、音楽の運びはより内省的で、感情の揺れが直接的に表れています。クレア・フアンチのピアノは軽くて聞き疲れのしない爽やかな音色。軽やかな即興曲という雰囲気。強音でも音を厚くしすぎず、速いパッセージも明瞭で、その中で陰影のある音色でまとめている点が印象的です。
続いて《一年》H.385 より。1年間の季節の移ろいをピアノで描くといったら、チャイコフスキーの《四季》が有名ですが、この作品はそれよりもだいぶ前に書かれています。1月から12月まで12曲中、4曲が取り上げられています。
《2月:スケルツォ》は、軽快さの中にどこか落ち着かない気配を含んだ曲。フアンチの演奏はリズムを引き締めつつ、分散和音を鋭く刻み、謝肉祭的な高揚と不安定さを同時に描き出します。
《5月:春の歌》では一転して爽やかな歌心が前面に出ます。明るい希望に満ちた春の歌。旋律を過度に前に出さず、和声と内声とのバランスを保つことで、穏やかな明るさが自然に広がります。
《6月:セレナード》は右手が美しい旋律を奏で、一瞬ショパンかと思えば続く伴奏形がシューベルトを思わせます。主部はピアノの中音で歌わせます。フアンチは旋律の下にある微妙な和声の変化を弾き分け、後半は華やかなアルペジオで響きを立体的に聴かせます。
ファニー・ヘンゼル、素晴らしい!もっともっと聴きたくなりました。
エイミー・ビーチは、19世紀末から20世紀初頭のアメリカを代表する作曲家・ピアニスト。神童として早くから注目されましたが、結婚後は演奏活動を制限されます。このパターン、多いですよね・・・。なんでこの頃の欧米は女性に音楽活動をやらせたくなかったのか・・・ピアノは習わせていたようなのに。男性社会だったのでしょうけれど、そのおかげもあってビーチは演奏ではなく作曲を中心に活動することで多くの作品を残します。培われた高度なロマン派語法と確かな構成力は、彼女の作品に深い説得力を与えています。後期ロマン派の和声感に、アメリカ的な旋律や感情表現が自然に溶け合い、とくにピアノ作品では技巧性と抒情性のバランスが際立ちます。近年は再評価が進み、歴史的意義だけでなく、純粋に音楽としての魅力があらためて注目されています。
フーガ風幻想曲 作品87ではヴィルトゥオージ的なアレグロ、そして後半は前半の主題によるフーガによる対位法的な書法と華やかな技巧が結びついた作品です。フーガがバッハみたいな厳格さを感じさせず、それでいながら、しっかりと対位法的に作られています。主題は何か不規則で、即興的な印象を与えていますが、ブックレットではスカルラッティみたいに「猫が鍵盤を歩いた音を使ったテーマかも」みたいなジョークも。フアンチは構造を明確に示しつつ、明るい雰囲気を保ちながら流れを見失いません。こういうフーガ面白いですね。大体フーガと言えば厳粛になりがちだけど、なんだか自由で、その中にフーガが顔を出す。好きです。フアンチは力感のあるパッセージでも音が濁らず、作品の知的側面がよく伝わります。
孤独な母の子守歌 作品108は対照的に内面的な重さを持つ作品。単なる抒情曲ではなく曲名からも想像できるように深く訴えるものがあります。フアンチは旋律の背後にある緊張感を保っています。
4つのスケッチ 作品15の《秋に》では揺れる和声と旋律の重なりを柔らかく処理し、幻想的な色彩の変化を丁寧に描きます。フアンチは軽快さを失わず明るい前向きな秋ですね。
《幻影》は軽やかさの中に思わぬ刺激的なパッセージが交錯するワルツ。フアンチのタッチの切り替えが巧みですね。
《夢想》では浪漫的歌心を前面に出しながら明るい音色で奏でています。とても美しい夢想。内向的な雰囲気を明るく保ちながら進めています。
《ほたる》は運動性と輝きが特徴で、フアンチの指の粒立ちの良さが際立ちますね。ほたるって感じはしないけど・・・難しそうなパッセージを軽々弾いています。
クララ・シューマンはもうご存知ロベルト・シューマンの奥様ですが、ここで聴かれる作品では、若き日の自信と野心がはっきりと表れています。
だいぶ前になりますが、クララ・シューマンが所蔵していたピアノによるコンサートというのを聴きました。そのピアノの繊細でありながらよく通る音と、クララの知られざる美しいピアノ曲や歌曲に酔いしれた思い出があります。すばらしい作曲家だったのですね・・・。
音楽の夕べ 作品6の《夜想曲》。ここで雰囲気が変わります。内面的で親密な抒情に満ちた作品です。フアンチはテンポを大きく揺らさず、旋律の呼吸を大切にすることで、静かな集中を保っています。
《幻想的情景―亡霊たちのバレエ》はここでも特徴的なリズムを素材に幻想性と不気味さが同居しています。フアンチは場面ごとに音色や弾き方を変えて様々な対比をさせていて鮮やかです。
ピアノ協奏曲 イ短調 作品7 より ロマンスでは、本来はチェロとの対話を前提とした楽章ですが、独奏版でも歌心は失われません。フアンチはクララのピアノ協奏曲を弾いたことから、このアルバムの構想を思いついたとか。彼女お気に入りの作品でしょう。旋律線を大きく歌わせながらも感情を誇張せず、静かな高揚感を保っています。途中からトリスタン・コルヌのチェロが深いいかにもシューマン的(夫の)なメロディが入ります。この曲、ちょっと原曲のオーケストラとピアノ版を聴いてみたくなりました。
フローレンス・プライスについては、何度か当ブログ・noteで紹介しています。
すっかり20世紀前半のアメリカを代表する作曲家のひとりとなりました。アフリカ系アメリカ人女性として、性別と人種の両面で厳しい制約を受けながらも、交響曲からピアノ曲、歌曲まで幅広い作品を残しました。ロマン派的な和声感を基盤に、霊歌や労働歌に由来する旋律やリズムを自然に取り入れた語法が特徴です。感情表現は率直でありながら構成は明快で、親しみやすさと緊張感が共存しています。長く忘れられてきましたが、別荘で見つかった大量の未発表作品とともに近年の再評価著しく、アメリカ音楽史に欠かせない作曲家として確かな位置を占めるようになっています。
黒人幻想曲 第2番 ト短調では霊歌や労働歌を思わせる要素と、ヨーロッパ的なヴィルトゥオジティが交錯する作品です。フアンチは民族的要素をあまり強調しすぎず、和声と構成の流れを重視しています。そのせいでしょう、音楽が自然に立ち上がります。
《瞑想》は想像していたよりずっと軽やかな音楽で、素朴でロマン的なメロディを共感をもって浮かび上がらせます。
《春の乙女のワルツ》ではクルクル回るようなパッセージが楽しい作品。あまり考えずにこの楽しさを味わいたくなります。そしてフアンチは一見素朴な旋律の背後にある和声の色彩を丁寧に掘り下げています。最後はグリッサンドで決めていますね。ちょっとしたアンコールピースにもなりそう。
《あなたの手は私の中に》は親密で愛する気持ちが溢れ出たロマンティックな曲で、フアンチの共感をもった歌い回しが素敵です。
このアルバムを締めくくる《コットン・ダンス》ではリズムの躍動を明確にしながら、ユーモアと軽快さと品位を両立させています。こちらも楽しくグリッサンドで終了します。何か素敵なコンサートを聴いたようです。
録音は2025年7月、ドイツ・ハノーファーのライプニッツ劇場で行われました。使用ピアノはヤマハ CFXです。明瞭で立体的な音像が特徴で、強音でも硬くならず、弱音では繊細なニュアンスがしっかりと伝わります。ホールの残響も程よく、作品ごとの性格の違いが自然に浮かび上がる、バランスの良い録音です。ドルビー・アトモスでもApple TVから聞けますが、まだ未聴。
このアルバムは、女性作曲家という共通点だけでまとめられた企画ではなく、それぞれの作品が持つ独自の魅力と完成度を、現代の視点から提示しています。クレア・フアンチの演奏はクリアなたタッチとその曲への強い共感とともに冷静で知的な演奏によって、これらの音楽が女性の作品だから、というのではなく、魅力的なピアノ作品として響いてきます。静かに耳を傾けながら、作品同士の違いと共通点を味わう楽しみのある一枚でありました。